尖閣諸島(中国名・魚釣島)沖で2010年9月7日に起きた海上保安庁の巡視船「よなくに」と漁船「みんしんりょう5179」(表字外のためひらがな標記)の事件の映像がyoutubeに流されたことについて、毎日のように大きな扱いで報道されている。
多くは、あの映像を国家公務員である海上保安庁の保安官が流出させたことについての国家公務員法の守秘義務違反のみが問題とされているようだ。国家公務員の守秘義務違反については、外務省機密電文事件(西山事件)や裁判員制度の裁判員の守秘義務について語られることが多く見受けられる。流出させた行為については別途検証の必要があろう。
しかし、あの「尖閣諸島中国漁船衝突事件 流出ビデオ 4/6」の映像を見る限りにおいて、読み取れること、読み取れないことについてのコメントがほとんどなく、また、その限られたコメントもかなり「被害者」という視点から述べられたものであるので、もうすこし冷静に、かつ客観的に「あの映像」を分析してみたい。
あらかじめ断っておくが、私は船舶の操縦免許を持っているわけではない。ただ、船舶で少し仕事をしていた経験があるので、その限りにおいて、興味を持っている、あるいは見聞きして調べたという範囲で今回の映像を検証してみたい。
○船は急に止まれないし、曲がれない
「狭い日本そんなに急いでどこに行く」「車は急に止まれない」という標語が1970年代の交通戦争を象徴するものとして使われたが、車以上に「船は急に止まれない」のである。
車はタイヤと地面の摩擦によって急加速もできるし、急減速もできる。ところが、抵抗の少ない船はよりとまりにくいのである(もちろん抵抗がゼロであるわけではなく、造波抵抗などがあり、それを軽減するためにバルバスバウ(球状船首)やスクリューの設計などが重視されるのだが)。高校の物理で「慣性の法則」を教えているものと思うが、止まっている物体、あるいは等速度で動いている物体は、力を受けない限りその状態を変えることはなく、動いている物体は摩擦によるエネルギーの放出をしない限り、止らないのである。水にも抵抗はあるが、陸上や空中を移動する以上に抵抗が少ないので、あれだけ巨大な船が相当の重量物を運んでも採算に見合うのである。
それでは、どのくらい止まりにくいか。船は発注主の依頼によって創られるオーダーメイド船が通常であるため、実際に造ってから進水して儀装がほぼ完了した後、海上公試(公式試運転)を行う。その際に、旋回試験、速力試験とともに、クラッシュ・ストップ・アスターン(クラッシュ・アスターン)試験を行う。「クラッシュ」とは、エンジンをクラッシュさせる恐れのあるほど全開運転であり、「アスターン」は「後進(後退)」を意味する。緊急停止の際にはそれこそ、機関を故障させるか、あるいは寿命を大幅に縮めるほどの全開運転を行うので、かつて日本海軍の軍艦の全開を伴う運転は海軍大臣の許可がなければできないぐらいであった。
さらに、スクリュー船の場合には、止まりにくいだけでなく緊急停止時に舵が効かない。豪華客船のように乗り心地を重視してスクリュー自体が回転して舵を切る船もある(燃費は多少犠牲になる)が、おおよその船はスクリューの後ろに舵を設けている。通常の運行時は、スクリューの起こす力を舵に当てて、面舵、取り舵をとることができるが、スクリューを逆転させてしまうと、水流がまともに舵に当たらずに効かなくなってしまうのである。どのくらい止まらないのかというと、池田良穂氏の「船の最新知識 タンカーの燃費をよくする最新技術とは?」(ソフトバンク新書、2008年)で紹介されている事例で言えば、20万トンタンカーならば、緊急停止の指令後、進行方向に約2km、横方向に約2kmずれてしまい、完全停止までに14分40秒ほどかかってしまうのである。規模は違うものの、漁船であれ、止まりにくいことは想像できるのではないだろうか。
○「あの映像」から読めることは?読めないことは?
そのような前提を基に、「あの映像」をみてみよう。この映像を見る限り、①海上保安庁の巡視船「よなくに」が中国漁船にぶつけられた、②「よなくに」が中国漁船にぶつかった、③「よなくに」が意図的に中国漁船にぶつかりに行った、という三パターンが読み取れるし、読み取れないのである。
つまり、どういうことかというと、実際の映像を見ながらのほうが分かりやすい。問題の映像は11分25秒だが、衝突自体は2分15秒から17秒の間に起きている。注目していただきたいのは、二点ほどある。
一つは中国漁船の動きであり、もう一つは、「よなくに」自体の中国漁船との位置関係である。
まず、中国漁船の動きだが、衝突の直前の1分30秒からエンジンをかなり回している。これに対して、海上保安庁の職員と見られる撮影者は、「また、黒い煙が上がって、放出流が出ています。前進行足(ぜんしんいきあし)です」といっている。引き続き、1分51秒から58秒ごろに中国漁船はエンジンを再び回している。これを見た撮影者は「またエンジンの回転が上がりました。えー、本船の方に船首を向けてきます。挑発的です。本船に船首を向け挑発的な動きを見せています」とコメントしている。実は、このエンジン全開と見られる煙の放出は中国漁船が前進しようとしたのか、後進(後退)、つまりブレーキをかけようとした行為なのかが分からないのである。止まろうとして、エンジンを全開にしてクラッシュ・ストップ・アスターンをかけたともいえなくはないのである。
もう一つ「よなくに」自体の動きだが、2分9秒頃から明らかになってくるのは、航跡が進行方向に向かって左に曲がってきていることである。つまり、中国漁船の進行方向に対して前方で取り舵(左)を切ったことになる。もし、中国漁船が危険を察知してクラッシュ・ストップ・アスターンをかけたのだとしたら、舵の効かない状態でぶつからざるを得ない状況になっているかもしれない。「よなくに」がなぜ取り舵を切ったのかという理由は分からないが、舵を切った事実は、航跡というはっきりした「証拠」が残ってしまっているため、否定のしようがない。となると、「よなくに」が中国漁船の前方に回りこんで回避しようがない状態に持ち込んだとも読めなくはないのである。こうなると、比較的小さな漁船とはいえ、船は急には止まれないのだから、たまったものではない。
さらに言うと、「よなくに」が衝突直前にどのような速度で航行していたのかが読み取れないのである。
海上保安庁の船から見れば、撮影者の言うように確かに「ぶつけられた」ように見えるのかもしれないが、動いている物同士の映像は、相対的にしか見えないのである。自動車や電車などに乗っていて、相手の自動車もしくは電車を見ていて、加速しているようだが実は減速していたり、その逆だったりということは日常的に経験していることだと思う。
○映像の視点は「撮影者」の視点
以上に見てきたように、流出した「あの映像」は動いたものの上からの視線であるし、取締官である海上保安庁の職員の目線で撮影されたものである。だから、客観的な映像とは言えない。
もちろん、中国側の漁船が「自国の海域」で操業していたこと自体はそれなりの意図や思惑があってのことだろうし、それは「よなくに」も「自国の海域」として警備をしていたという意味では同じである。衝突したという事実は厳然としてあるものの、そこからは①~③のどのパターンであったのか、両者にどういう意図があったかどうかまでは読み取れないのである。
映像の流出自体は、国家公務員法の守秘義務違反になるのかならないのか(私は「形式秘」にも「実質秘」にもならないと思うが)が問題とされている。それはまた機会を改めて議論したいが、より大きな問題は、せっかく明らかになった「あの映像」自体を検証する動きにはなっていないことである。中国の漁船の行為を正当化したり、非難したりするつもりはない。ただ、以上のこと触れずに、あたかも①だけの論調で中国側を批判したり、「あの映像」を流出させたことの問題ばかりを検証したりしているマスコミや世論にも大きな問題があるのではなかろうか。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制
2010年11月18日木曜日
2010年10月31日日曜日
デジタル難民の行く先はどこ? 地デジ化体験記(その4)
しばらく時間がたってしまったが、地上(BS)デジタル完全移行についてのちぐはぐぶりなところをもう少し書き留めておきたい。
○複雑すぎるデジタル難視聴対策の手続
「地デジ難視対策衛星放送対象リスト(ホワイトリスト)」の対象地区になったことは第1回(2010年4月30日)、第2回(5月31日)で書き記したが、すぐに手続をしようとして、デジサポ⇒DPAに連絡して、申し込み用紙の郵送を希望したところ、「まずは市役所から地区を通して告知するのでそれを待ってほしい」(地区によって告知方法は違うらしいが)ということであったので、待っていたが約一か月たっても来ないので、痺れを切らして再度問い合わせをしたら、「すぐに送ります」という(だったら、最初から送ってもらいたいものだが!!)。
また、申請も非常にわずらわしく、写真つきの住基ネットカードのコピーならば単独での提出が可能なものの、住民票や健康保険証、パスポート等は単独での証明ができず、免許書等の写真つきのものを併せて提出しなければならないという非常に厄介な申請になっている。
それだけでなく、その書類がDPAに届いた後、電話による本人確認があり、その後、申請地に届いた確認のはがきを送り返さないと使用ができないというのだ(この時点までに、DPAは視聴者を犯罪者扱いしているのかと怒り心頭になっていた)。
その一方で、そこまでしつこく確認を求めていながら、開通通知は全くなく、いつまでたっても映らない。そのため、問い合わせをしてみて、その方法を実施してみると映らない。もう一度確認の電話をすると、(向こうの決めた)期限内にチューナーでの受信がなされなかったので、暗号鍵解除の信号を止めたというのだ。DPAの言い分によれば、そこら辺は、「申請時の用紙に書いてあります」という。だが、申請書にはおおよそのスケジュールしか示されていないのであり、いつ開通したのかも視聴者は分からない。そんな不十分な説明で良いと思っているのだろうか。
○なぜ3台に限られるのか?
上記の対象地区においては、3台までのチューナー(B-CASカード)が登録できるのだが、なぜ3台までに限定されているのか。DPAの説明によれば、総務省との協議等において、保有台数等を勘案して3台に決めたというが、ここには録画機の台数を勘定に入れていない節がある。そうなると、テレビ2台、録画機1台という勘定なのか。それ以上を保有している世帯は、不便をがまんしろということなのか。
DPAの担当者は、「録画機を通して視聴してください」ということを説明していたが、録画機は主にチューナーとして使う目的であるのではなく、録画をするためのものである。それが副次的にチューナーとして使えるだけのことであり、シングルチューナーのデッキの場合には、視聴時間帯と同時間帯に放送されるいわゆる「裏番組」の録画ができないことになってしまい、録画機の本来の意味を半減させてしまう。こうしたちぐはぐぶりは、国とDPAの制度・政策設計の乏しさに根本原因がある。
総務省やDPAはデジタル放送普及においてどうも録画機の存在を軽視しているとしか思えない。たとえば、DPAでは、デジタル受信機の普及状況を示すものとしてNHK独自の推定値としての普及状況(速報値)をウェブサイトに随時掲載している。2010年9月末現在で、地上デジタル放送(累計)で8814万台(「PDP・液晶テレビ」約5566万台、「ブラウン管テレビ」約72万台、「デジタルチューナー(チューナー内臓録画機も含む)」約1986万台、「ケーブルテレビ用STB」の小計約8569万台に「地上デジタルチューナー内蔵PC、JEITA発表値8月末現在)約245万台をあわせて」)としているが、これは各方面から指摘のあるように、ビデオに搭載されたチューナーをカウントしているのではないかという可能性がある。仮にその指摘が間違っているのだとして、それを別途集計しているならば、HDDレコーダーなどの録画機の普及台数なども別途公表すべきであるという別の問題も生じる(つまり、アナログHDD録画機などもいずれ不要になるのだから・・・)。
逆に言えば、仮に、DPAがウェブサイトに掲載しているNHKの数値が、テレビ単体の集計値だとするならば、なぜ難視聴対策地区では、録画機を含めて3台に限っているのか。
一足先に2010年7月24日に完全デジタル化を実施した石川県珠洲市では、使用している受信機の台数により最大4台までのチューナーが貸与された。4台でも十分とはいえないが、一方で4台用意されているにもかかわらず、なぜ、デジタル難視聴世帯は3台に限られるのであろうか。むしろ、難視聴地区は買い替えの余裕があっても物理的に映らないのである。せっかく、買い替えをしても映らないテレビ・録画機になってしまうだけである(こういう救済はそもそも必要ないのであろうか、あるいは家族そろってお茶の間で視聴してくださいということを推奨しているのであろうか)。
仮に受信している台数によって衛星使用料を衛星会社に支払っているのだとすれば、台数を限定することの推測もつくが、もしそうでなければ、衛星電波の照射を受けているだけのチューナーの台数を制限する理屈が分からない。
○国と視聴者のチキンレース
2011年7月24日まであと266日(10月31日現在)。新聞紙面でもカウントダウンが行われているが、本当にとまるのか懐疑的にみる視聴者もいなくはない。また、集合住宅等ではその費用負担をめぐって折り合いがつかず、南関東地区の設置されているアンテナを目視してみても、依然としてVHFと思しきアンテナだらけである。アナログテレビでは、すでにレターボックス画面で黒枠の中にデジタルへの移行を呼びかけるメッセージで画面が「汚されている」が、現実の問題として、来年の7月にはアンテナ工事が間に合わず、デジタルテレビを見ることのできない「デジタル難民」が出てしまうことになる。総務省側は、7月24日が譲れない線としているものの、アンテナ工事殺到による限界についてはどうしようもなく、ようやく緊急対策として地デジ難視対策衛星放送対象の再送信を活用するという(『読売新聞』2010年10月28日付)政策を打ち出した。ただ、これもBS受信機・アンテナを持っていない世帯や、ビル陰などでBSが受信できない場所では、根本的な解決にはならない。
こんなことをするよりも、アナログ放送のサイマル送信に補助を出して、2年ぐらい延期してはどうだろうか。アナログ送信設備は機材がすでに生産されていないため綱渡りになる問題はあるものの、そうすれば、関東地区でも「スカイツリー」の建設が間に合うし、北海道や山岳地区での中継アンテナの整備も間に合うではないのか。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制
○複雑すぎるデジタル難視聴対策の手続
「地デジ難視対策衛星放送対象リスト(ホワイトリスト)」の対象地区になったことは第1回(2010年4月30日)、第2回(5月31日)で書き記したが、すぐに手続をしようとして、デジサポ⇒DPAに連絡して、申し込み用紙の郵送を希望したところ、「まずは市役所から地区を通して告知するのでそれを待ってほしい」(地区によって告知方法は違うらしいが)ということであったので、待っていたが約一か月たっても来ないので、痺れを切らして再度問い合わせをしたら、「すぐに送ります」という(だったら、最初から送ってもらいたいものだが!!)。
また、申請も非常にわずらわしく、写真つきの住基ネットカードのコピーならば単独での提出が可能なものの、住民票や健康保険証、パスポート等は単独での証明ができず、免許書等の写真つきのものを併せて提出しなければならないという非常に厄介な申請になっている。
それだけでなく、その書類がDPAに届いた後、電話による本人確認があり、その後、申請地に届いた確認のはがきを送り返さないと使用ができないというのだ(この時点までに、DPAは視聴者を犯罪者扱いしているのかと怒り心頭になっていた)。
その一方で、そこまでしつこく確認を求めていながら、開通通知は全くなく、いつまでたっても映らない。そのため、問い合わせをしてみて、その方法を実施してみると映らない。もう一度確認の電話をすると、(向こうの決めた)期限内にチューナーでの受信がなされなかったので、暗号鍵解除の信号を止めたというのだ。DPAの言い分によれば、そこら辺は、「申請時の用紙に書いてあります」という。だが、申請書にはおおよそのスケジュールしか示されていないのであり、いつ開通したのかも視聴者は分からない。そんな不十分な説明で良いと思っているのだろうか。
○なぜ3台に限られるのか?
上記の対象地区においては、3台までのチューナー(B-CASカード)が登録できるのだが、なぜ3台までに限定されているのか。DPAの説明によれば、総務省との協議等において、保有台数等を勘案して3台に決めたというが、ここには録画機の台数を勘定に入れていない節がある。そうなると、テレビ2台、録画機1台という勘定なのか。それ以上を保有している世帯は、不便をがまんしろということなのか。
DPAの担当者は、「録画機を通して視聴してください」ということを説明していたが、録画機は主にチューナーとして使う目的であるのではなく、録画をするためのものである。それが副次的にチューナーとして使えるだけのことであり、シングルチューナーのデッキの場合には、視聴時間帯と同時間帯に放送されるいわゆる「裏番組」の録画ができないことになってしまい、録画機の本来の意味を半減させてしまう。こうしたちぐはぐぶりは、国とDPAの制度・政策設計の乏しさに根本原因がある。
総務省やDPAはデジタル放送普及においてどうも録画機の存在を軽視しているとしか思えない。たとえば、DPAでは、デジタル受信機の普及状況を示すものとしてNHK独自の推定値としての普及状況(速報値)をウェブサイトに随時掲載している。2010年9月末現在で、地上デジタル放送(累計)で8814万台(「PDP・液晶テレビ」約5566万台、「ブラウン管テレビ」約72万台、「デジタルチューナー(チューナー内臓録画機も含む)」約1986万台、「ケーブルテレビ用STB」の小計約8569万台に「地上デジタルチューナー内蔵PC、JEITA発表値8月末現在)約245万台をあわせて」)としているが、これは各方面から指摘のあるように、ビデオに搭載されたチューナーをカウントしているのではないかという可能性がある。仮にその指摘が間違っているのだとして、それを別途集計しているならば、HDDレコーダーなどの録画機の普及台数なども別途公表すべきであるという別の問題も生じる(つまり、アナログHDD録画機などもいずれ不要になるのだから・・・)。
逆に言えば、仮に、DPAがウェブサイトに掲載しているNHKの数値が、テレビ単体の集計値だとするならば、なぜ難視聴対策地区では、録画機を含めて3台に限っているのか。
一足先に2010年7月24日に完全デジタル化を実施した石川県珠洲市では、使用している受信機の台数により最大4台までのチューナーが貸与された。4台でも十分とはいえないが、一方で4台用意されているにもかかわらず、なぜ、デジタル難視聴世帯は3台に限られるのであろうか。むしろ、難視聴地区は買い替えの余裕があっても物理的に映らないのである。せっかく、買い替えをしても映らないテレビ・録画機になってしまうだけである(こういう救済はそもそも必要ないのであろうか、あるいは家族そろってお茶の間で視聴してくださいということを推奨しているのであろうか)。
仮に受信している台数によって衛星使用料を衛星会社に支払っているのだとすれば、台数を限定することの推測もつくが、もしそうでなければ、衛星電波の照射を受けているだけのチューナーの台数を制限する理屈が分からない。
○国と視聴者のチキンレース
2011年7月24日まであと266日(10月31日現在)。新聞紙面でもカウントダウンが行われているが、本当にとまるのか懐疑的にみる視聴者もいなくはない。また、集合住宅等ではその費用負担をめぐって折り合いがつかず、南関東地区の設置されているアンテナを目視してみても、依然としてVHFと思しきアンテナだらけである。アナログテレビでは、すでにレターボックス画面で黒枠の中にデジタルへの移行を呼びかけるメッセージで画面が「汚されている」が、現実の問題として、来年の7月にはアンテナ工事が間に合わず、デジタルテレビを見ることのできない「デジタル難民」が出てしまうことになる。総務省側は、7月24日が譲れない線としているものの、アンテナ工事殺到による限界についてはどうしようもなく、ようやく緊急対策として地デジ難視対策衛星放送対象の再送信を活用するという(『読売新聞』2010年10月28日付)政策を打ち出した。ただ、これもBS受信機・アンテナを持っていない世帯や、ビル陰などでBSが受信できない場所では、根本的な解決にはならない。
こんなことをするよりも、アナログ放送のサイマル送信に補助を出して、2年ぐらい延期してはどうだろうか。アナログ送信設備は機材がすでに生産されていないため綱渡りになる問題はあるものの、そうすれば、関東地区でも「スカイツリー」の建設が間に合うし、北海道や山岳地区での中継アンテナの整備も間に合うではないのか。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制
2010年9月28日火曜日
電子書籍時代の到来と出版産業の崩壊
数ヶ月前はじめて電子書籍の類を手にした。『ウェブ進化論』でおなじみの、梅田望夫氏が『iPadがやってきたから、もう一度ウェブの話をしよう』という書籍を、産経新聞出版からiPad、iPhone向けにリリースした。私は、iPhoneユーザーなので、AppStoreから450円でこのコンテンツをダウンロードした。読んでみた感想は、なかなかどうして。意外とこの手の電子書籍(コンテンツ)に抵抗のあった私だったが、「上手に」読めた。一番意外だったのは、iPhoneの大きさだ。電子書籍には小さいな、と思っていたのであるが、このサイズは適している。というか、速く読める。右上から左下の、いわゆる「斜め読み」が容易なのだ。したがって、ひょっとすると新書を読む速度よりも速いかもしれない。しかしながら、懸念していたことは、その通りで、気になったところのページを「折ったり」、気になった行に「線を引いたり」することができない。無論、この反論に対しては、たいてい、「それはアプリの問題で、線を引けて、付箋がはれるようなアプリを作ればいいんですよ」という答えが返ってくる。しかし、である。僕が思うのは、「あ、あの本どこだっけ」からはじまって、「確かこの辺だったな」となり、「あ、見つけた見つけた」と本を見つけて、「えーと、確かこの本のこの辺だっただかなぁ」とページを「ぱらぱらめくり」そして、自分で線を引いたところを「感覚的に」見つけることが、できるかといえば、それはどんな優秀なアプリができても難しいところだろう。まぁ、電子書籍元年。そこまで求めても仕方ないかもしれない。
以前、セカンドライフを研究しているある先生に私の講義でゲストスピーチをしていただいたとき、セカンドライフのような3Dバーチャル空間では、「あ、あのピアス、この辺に置いたんだけど・・・確か、このクローゼットのこの辺に・・・」という「検索」ができるようになる、というお話があった。これには、目から鱗だったわけだが、電子書籍も、近い将来、何らかの形で、私のもどかしさを解決してくれることと思うのである。
さて、話しを少し変えてみる。
私の会社の株主に出版社がいることもあって、iPadやiPhoneのようなデバイスが世の中に出てきて以降の、電子書籍の取り組みについて、深く話し込むことがある。その一端に触れたいと思う。
http://www.scribd.com/
というサービスが米国ではある。未上場の状態で、二桁億の資金調達に成功したことでも有名なので、ご存知の方は多いかもしれない。このサービスは、誰でも自分で書いたドキュメントをアップロードして、インターネットでシェアすることができる。場合によっては、アップロードした自分の「作品」に自分で値付けをして、売ることもできる。その場合、2:8で、8が著者に入り、2がscribdの収益となる。現在の印税を考えれば破格の待遇だ。これは、完全な、C to Cサービスであって、scribdは、有料を含めた様々は形式でドキュメントを共有するプラットフォームを提供しているのである。後は、ユーザーが勝手に、色々な目的でドキュメントをアップしていく仕組みだ。
これを思うとき、「出版産業」の崩壊が容易く頭に浮かぶ。私は兼ねてから、出版社は「ゼネコン」と表現してきた。究極的には「ゼネコン」や「代理店」はなくても、最終的なアウトプットは完成する。出版の場合、「編集者」が「著者」を発掘し、そして著者に作品を書かせ、それを出版社が「査読」をする。出版社からGOが出るまで、出版社の社員である編集者は、著者と一体になって「本作り」にまい進する。そして、本の出版許可が出されると、「紙屋」が登場する。紙屋は、輪転機を回して、数千部や数万部といった本を印刷する。次の出番は、「トウハン」や「ニッパン」に代表される取次ぎだ。私は、なぜ、これらの機能が必要なのかいまだに理解できないわけだが、とにかく産業の中で強い影響力を維持している。それからいくつかの過程を経てやっと本屋に並ぶわけだ。
scribdのモデルは、これらの中間的な仕事を「無意味」として、そぎ落とす。究極のプラットフォームである。日本進出の噂もある中で、すでに斜頚産業化している業界は、戦々恐々としているのである。
日本でも、ネオジャパン社が、ライブラ(http://libura.com/)というscribdに似たサービスをβリリースしている。このプラットフォームには、大手出版社が食指を伸ばしているという噂もある中で、同社は、IDC大手のビットアイルと新会社を作ることで合意している。日本にも、C to C電子出版の風が吹く日も近そうだ。
私にいわせれば、「取次ぎ」とか「代理店」とか「ゼネコン」は不要である。特にインターネットの世界を知れば知るほど、そういった機能は嫌われるのである。しかし、先に述べたとおり、出版社の幹部と話しをしていると、どうも一気に、C to Cモデルに移れない「哲学」が存在しているようだ。彼らによれば、出版産業の衰退は認めるものの、最低限「編集者」は必要だという。つまり前述の「査読」による「権威付け」は、出版物を売る上では、絶対に必要だという論理である。私は、彼らの哲学に触れるまで、出版社の宣伝文句や権威付けなんかよりも、amazonの読者レビューの方が100倍信用できると思っていたが、どうもそうではない世界がありそうだ。『編集者という仕事』という本がこの時期に売れているが、ここでは、プロフェッショナルの編集者がいかに著者と一体となって、すばらしいものを世の中にアウトプットしていくかが書かれている。「編集者」のプロフェッショナリズムはリスペクトに値する。
であるならば、プロフェッショナルたる編集者は、ゼネコンたる出版社に居るべきではない。電子出版の流れは、出版物そのものを電子化するだけではなく、出版産業をドラスティックに変革させている。変革というよりも、意図せず潰しにかかっているといっても過言ではない。先述の「scribd」にせよ「ライブラ」にせよ、その中間マージンを取る産業構造をゼロベースで考え直し、いらないものを極限までそぎ落とした結果、ユーザーに指示されるサービスに育ちつつある。少なくても「scribd」は米国で市民権を得たと言っても良いだろう。であれば、その新しいプラットフォームと、「編集者」や「査読」のような、そういった出版の歴史の中で培われたノウハウを融合させ、異常にコストのかかる産業構造をぶっ壊せば良いのである。つまり、こういった新しいプラットフォームを使えば、多くの著者が発掘され、優秀な編集者はフリーランスでこれらの著者と関わり、できるだけ安価に世の中にコンテンツをアウトプットする。その際、中間マージンを抜く輩は居ないわけだから、一生懸命、電子書籍を書いた著者と、それをプロフェッショナルとして支えた編集者に十分な利益が還元される、そういう世界である。
これは、夢ではない。もうそこまで来ている。
事実、大手出版社は軒並み大赤字らしい(上場していないので、財務諸表を確認したわけではないが)。そりゃ、そうである。そこへ来て、スマートフォンやタブレットコンピュータが続々と生産され、米国のamazonでは、キンドルベースの電子書籍のDL数が、紙の本の販売部数を越えている事実もある。
出版、放送、新聞といった、既得権益にしがみついてきて、大産業化し、身動きの取れなくなった「ゼネコン」には、もはや終焉が近付いているといってもよかろう。なにせ、その業界に身をおく幹部自信が、身を持って感じているのだから。
代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論
以前、セカンドライフを研究しているある先生に私の講義でゲストスピーチをしていただいたとき、セカンドライフのような3Dバーチャル空間では、「あ、あのピアス、この辺に置いたんだけど・・・確か、このクローゼットのこの辺に・・・」という「検索」ができるようになる、というお話があった。これには、目から鱗だったわけだが、電子書籍も、近い将来、何らかの形で、私のもどかしさを解決してくれることと思うのである。
さて、話しを少し変えてみる。
私の会社の株主に出版社がいることもあって、iPadやiPhoneのようなデバイスが世の中に出てきて以降の、電子書籍の取り組みについて、深く話し込むことがある。その一端に触れたいと思う。
http://www.scribd.com/
というサービスが米国ではある。未上場の状態で、二桁億の資金調達に成功したことでも有名なので、ご存知の方は多いかもしれない。このサービスは、誰でも自分で書いたドキュメントをアップロードして、インターネットでシェアすることができる。場合によっては、アップロードした自分の「作品」に自分で値付けをして、売ることもできる。その場合、2:8で、8が著者に入り、2がscribdの収益となる。現在の印税を考えれば破格の待遇だ。これは、完全な、C to Cサービスであって、scribdは、有料を含めた様々は形式でドキュメントを共有するプラットフォームを提供しているのである。後は、ユーザーが勝手に、色々な目的でドキュメントをアップしていく仕組みだ。
これを思うとき、「出版産業」の崩壊が容易く頭に浮かぶ。私は兼ねてから、出版社は「ゼネコン」と表現してきた。究極的には「ゼネコン」や「代理店」はなくても、最終的なアウトプットは完成する。出版の場合、「編集者」が「著者」を発掘し、そして著者に作品を書かせ、それを出版社が「査読」をする。出版社からGOが出るまで、出版社の社員である編集者は、著者と一体になって「本作り」にまい進する。そして、本の出版許可が出されると、「紙屋」が登場する。紙屋は、輪転機を回して、数千部や数万部といった本を印刷する。次の出番は、「トウハン」や「ニッパン」に代表される取次ぎだ。私は、なぜ、これらの機能が必要なのかいまだに理解できないわけだが、とにかく産業の中で強い影響力を維持している。それからいくつかの過程を経てやっと本屋に並ぶわけだ。
scribdのモデルは、これらの中間的な仕事を「無意味」として、そぎ落とす。究極のプラットフォームである。日本進出の噂もある中で、すでに斜頚産業化している業界は、戦々恐々としているのである。
日本でも、ネオジャパン社が、ライブラ(http://libura.com/)というscribdに似たサービスをβリリースしている。このプラットフォームには、大手出版社が食指を伸ばしているという噂もある中で、同社は、IDC大手のビットアイルと新会社を作ることで合意している。日本にも、C to C電子出版の風が吹く日も近そうだ。
私にいわせれば、「取次ぎ」とか「代理店」とか「ゼネコン」は不要である。特にインターネットの世界を知れば知るほど、そういった機能は嫌われるのである。しかし、先に述べたとおり、出版社の幹部と話しをしていると、どうも一気に、C to Cモデルに移れない「哲学」が存在しているようだ。彼らによれば、出版産業の衰退は認めるものの、最低限「編集者」は必要だという。つまり前述の「査読」による「権威付け」は、出版物を売る上では、絶対に必要だという論理である。私は、彼らの哲学に触れるまで、出版社の宣伝文句や権威付けなんかよりも、amazonの読者レビューの方が100倍信用できると思っていたが、どうもそうではない世界がありそうだ。『編集者という仕事』という本がこの時期に売れているが、ここでは、プロフェッショナルの編集者がいかに著者と一体となって、すばらしいものを世の中にアウトプットしていくかが書かれている。「編集者」のプロフェッショナリズムはリスペクトに値する。
であるならば、プロフェッショナルたる編集者は、ゼネコンたる出版社に居るべきではない。電子出版の流れは、出版物そのものを電子化するだけではなく、出版産業をドラスティックに変革させている。変革というよりも、意図せず潰しにかかっているといっても過言ではない。先述の「scribd」にせよ「ライブラ」にせよ、その中間マージンを取る産業構造をゼロベースで考え直し、いらないものを極限までそぎ落とした結果、ユーザーに指示されるサービスに育ちつつある。少なくても「scribd」は米国で市民権を得たと言っても良いだろう。であれば、その新しいプラットフォームと、「編集者」や「査読」のような、そういった出版の歴史の中で培われたノウハウを融合させ、異常にコストのかかる産業構造をぶっ壊せば良いのである。つまり、こういった新しいプラットフォームを使えば、多くの著者が発掘され、優秀な編集者はフリーランスでこれらの著者と関わり、できるだけ安価に世の中にコンテンツをアウトプットする。その際、中間マージンを抜く輩は居ないわけだから、一生懸命、電子書籍を書いた著者と、それをプロフェッショナルとして支えた編集者に十分な利益が還元される、そういう世界である。
これは、夢ではない。もうそこまで来ている。
事実、大手出版社は軒並み大赤字らしい(上場していないので、財務諸表を確認したわけではないが)。そりゃ、そうである。そこへ来て、スマートフォンやタブレットコンピュータが続々と生産され、米国のamazonでは、キンドルベースの電子書籍のDL数が、紙の本の販売部数を越えている事実もある。
出版、放送、新聞といった、既得権益にしがみついてきて、大産業化し、身動きの取れなくなった「ゼネコン」には、もはや終焉が近付いているといってもよかろう。なにせ、その業界に身をおく幹部自信が、身を持って感じているのだから。
代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論
2010年8月2日月曜日
言葉は電子帝国の論理に抹殺されるのか?
電子デバイスから消される言語
iPadが5月28日、日本でも発売となり、大きな話題となっている。「電子書籍元年」と呼んで、販売減に悩んでいる出版界にとっては起爆剤となる可能性があるため、さまざまなプロジェクトが進められている。
発売前日には、アップルストアや取扱量販店の前などで行列している姿が報道されていたが、ドラゴンクエストやWindows95の発売時の再来かと思えたが、沈黙の行列ではなく、Twitterでリアル中継されていた点では、時代の流れを感じた。
私もiPadに興味を持っていて買おうとしていたが、しばらく断念している。なぜかというと、二つの理由がある。
一つは初期ロットの不安定さを回避するということ、もう一つは、これが最大の理由だが、キーボード入力が韓国語に対応していないからである(筆者は少々韓国語を使うことがあるので・・・)。
現在のところ、iPhoneは、英・仏・独・中・蘭・伊・西・葡・丁・瑞・芬・諾・韓・日・露・波・土・ウクライナ(ああ~、漢字がない、、、)、アラビア・タイ・チェコ・ギリシア・ヘブライ・インドネシア・マレーシア・ルーマニア・スロバキア、クロアチア語の計28言語(国別を除く)に対応している。多言語キーボードのサポートについては、セルビア語まで加えられている。
ところが、iPadでは、メニュー言語で、英仏独日蘭伊西中露の9か国語に対応しているのみで、しかも中国語は中国本土で使われる簡体字だけである。また、多言語キーボードや辞書のサポートについては、それにフラマン語(ベルギーで使われるオランダ語)が加わっているくらいである。
聞くところによると、iPadの韓国発売は来年だということであり、その時点でアップデートされて入力・表示が可能になるかもしれない。ただ、初期ロットを避けるという意味もあり、購入までには時期尚早かなと思っているところである。
そういう考えを持っていたところ、もう一つ気になるニュースを聞いた。ASUSTek computerも6月1日、台北で開かれたComputex2010でタブレットPC「eee Tablet」を発表した。しかしこれも日本での発売は未定のため、当面のところ、英語、ドイツ語、中国語のみに対応させるとしている。
○世界地図から続々消える言語
世界には現在、およそ6500の言語があると言われているが、2001年からの30年で3000の言語が消え、21世紀中には90%が消滅して300程度の言語しか残らないのだろうと、文化人類学者の福井勝義氏は警告している(東京新聞2001年2月4日付朝刊大図解「世界の言語地図」)。その原因の多くは、19世紀からの国民国家による中央集権的な教育制度とマスメディアの普及によって、言語の統一化が行われたことであり、地域の独自性や民族性が失われつつある。文字を持たない言語は、口承口伝で伝えていくしかないが、継承者が消えつつある。また、山一つ隔てれば別の言語というのは、各国の言葉にとって何も珍しいことではない。それは今日、世界的な共通言語として利用されつつある英語も例外でなく、ノルマンコンクェスト以前は古来ケルト語系統の言語を使っていたのだし、帝国主義以前は、国内における英語滅亡の危機すらあったのだ(世界中に普及して言ったのは帝国主義所以だが・・・)。
2010年4月9日に亡くなった井上ひさしは、明治時代の言語政策をベースにした戯曲『國語元年』を書いており、1985年にはNHKによってドラマ化されている。この物語では、幕藩体制下で250の国に分かれていた日本を舞台に、富国強兵のために国語教育で言語を統一することを命ぜられた文部省の下級官吏・南郷清之輔(長州出身)が主人公だ。奥方と舅は薩摩出身であり、息子とともに4人で暮らしているが、この邸宅には、江戸山手、下町、山形、遠野出身の使用人に加え、言葉の相談役として名古屋の書生、公家が加わり、そこに会津弁をしゃべる元士族の泥棒が飛び込んでくるという舞台で、その中でお国言葉を無理に変えようとするところに問題が続出して、七転八倒する様子が面白い。
日本はその後、この戯曲がベースとしたシナリオどおりではないが、近代化の過程の中で初等教育を整備して言語統一を行った。その中で、各地方の独自性や、アイヌ、琉球の言葉などの多様性が失われていくきっかけにもなっている。また、その後わずか30年後には、台湾や朝鮮半島、太平洋の諸島などで、日本語への言語同化政策を行っていくことになるのである。
アルフォンス・ドーデは新聞小説「最後の授業」の中で、普仏戦争(1870~71年)終結のフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ地方の割譲により、母国語を失った人々の悲しみをフランツという少年を通じて描き出している。フランス語嫌いであった少年が、いやいやながらに登校すると、フランス語の最後の授業日であり、翌日からはドイツ語による教育が行われることを知った。厳しかったアメル先生もやさしく迎えてくれてフランス語の授業が始まり、「フランス語は世界中で一番美しい、ある民族が奴隷になっても国語を持っている限りは牢獄の中でカギを持っているようなものだ」と言い、授業の最後に「フランス万歳」と言って終わるというストーリーである。このストーリーは1927年から1986年まで日本の国語教科書に頻繁に使われていた教材である(府川源一郎『消えた「最後の授業」』大修館書店)。
問題は、戦前は、言葉に対する愛着や愛国心を教える小中学校の国語教材として使われていたことである。つまり、自国民に言葉を失うことの悲しみを通じて言葉の大切さを教えながら、日本が他国に対してやっていたことのパラドックスが存在するのである。戦後は、朝鮮戦争を景気に復古的な動きや国語愛として復活したが、1986年には消えた(小学生当時、教わった記憶がある)。
○マスメディアが消した方言
言語の多様性は何も国家だけが押しつぶすのではなくて、マスメディアもその一因を担う。つまり、音声メディアでもある映画、放送(ラジオやテレビ)などは、音声を記録したり、母国語によるコミュニケーションを行ったりするために、アジアやアフリカではラジオ放送が重用されるが、その一方で、その普及により方言を押しつぶしてしまう恐れもある。山一つ越えると、意味や言い方が異なるという時代ではなくなってきたが、逆に言えば、言語の多様性は押しつぶされてくる恐れがある。装置産業であるマスメディアを利用するということは、ある意味である程度の規模を持たなければならない。そのために、少数言語や方言などには対応しきれないかもしれない。
パソコンやネットの普及は肌理の細かいところへの言語対応ができるはずである。ところが、冒頭に挙げたように普及すると見込まれている電子デバイスが画一化されてくると、ますます言語の滅亡に拍車がかかるのではないかとすら思われてならない。それは、普及できなかった電子デバイスの規格が葬り去られるだけでなく、そこに集約された言語の背後にある多数の採用されなかった言語も抹殺されることを意味するのではなかろうか。日本語も例外ではない。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制
iPadが5月28日、日本でも発売となり、大きな話題となっている。「電子書籍元年」と呼んで、販売減に悩んでいる出版界にとっては起爆剤となる可能性があるため、さまざまなプロジェクトが進められている。
発売前日には、アップルストアや取扱量販店の前などで行列している姿が報道されていたが、ドラゴンクエストやWindows95の発売時の再来かと思えたが、沈黙の行列ではなく、Twitterでリアル中継されていた点では、時代の流れを感じた。
私もiPadに興味を持っていて買おうとしていたが、しばらく断念している。なぜかというと、二つの理由がある。
一つは初期ロットの不安定さを回避するということ、もう一つは、これが最大の理由だが、キーボード入力が韓国語に対応していないからである(筆者は少々韓国語を使うことがあるので・・・)。
現在のところ、iPhoneは、英・仏・独・中・蘭・伊・西・葡・丁・瑞・芬・諾・韓・日・露・波・土・ウクライナ(ああ~、漢字がない、、、)、アラビア・タイ・チェコ・ギリシア・ヘブライ・インドネシア・マレーシア・ルーマニア・スロバキア、クロアチア語の計28言語(国別を除く)に対応している。多言語キーボードのサポートについては、セルビア語まで加えられている。
ところが、iPadでは、メニュー言語で、英仏独日蘭伊西中露の9か国語に対応しているのみで、しかも中国語は中国本土で使われる簡体字だけである。また、多言語キーボードや辞書のサポートについては、それにフラマン語(ベルギーで使われるオランダ語)が加わっているくらいである。
聞くところによると、iPadの韓国発売は来年だということであり、その時点でアップデートされて入力・表示が可能になるかもしれない。ただ、初期ロットを避けるという意味もあり、購入までには時期尚早かなと思っているところである。
そういう考えを持っていたところ、もう一つ気になるニュースを聞いた。ASUSTek computerも6月1日、台北で開かれたComputex2010でタブレットPC「eee Tablet」を発表した。しかしこれも日本での発売は未定のため、当面のところ、英語、ドイツ語、中国語のみに対応させるとしている。
○世界地図から続々消える言語
世界には現在、およそ6500の言語があると言われているが、2001年からの30年で3000の言語が消え、21世紀中には90%が消滅して300程度の言語しか残らないのだろうと、文化人類学者の福井勝義氏は警告している(東京新聞2001年2月4日付朝刊大図解「世界の言語地図」)。その原因の多くは、19世紀からの国民国家による中央集権的な教育制度とマスメディアの普及によって、言語の統一化が行われたことであり、地域の独自性や民族性が失われつつある。文字を持たない言語は、口承口伝で伝えていくしかないが、継承者が消えつつある。また、山一つ隔てれば別の言語というのは、各国の言葉にとって何も珍しいことではない。それは今日、世界的な共通言語として利用されつつある英語も例外でなく、ノルマンコンクェスト以前は古来ケルト語系統の言語を使っていたのだし、帝国主義以前は、国内における英語滅亡の危機すらあったのだ(世界中に普及して言ったのは帝国主義所以だが・・・)。
2010年4月9日に亡くなった井上ひさしは、明治時代の言語政策をベースにした戯曲『國語元年』を書いており、1985年にはNHKによってドラマ化されている。この物語では、幕藩体制下で250の国に分かれていた日本を舞台に、富国強兵のために国語教育で言語を統一することを命ぜられた文部省の下級官吏・南郷清之輔(長州出身)が主人公だ。奥方と舅は薩摩出身であり、息子とともに4人で暮らしているが、この邸宅には、江戸山手、下町、山形、遠野出身の使用人に加え、言葉の相談役として名古屋の書生、公家が加わり、そこに会津弁をしゃべる元士族の泥棒が飛び込んでくるという舞台で、その中でお国言葉を無理に変えようとするところに問題が続出して、七転八倒する様子が面白い。
日本はその後、この戯曲がベースとしたシナリオどおりではないが、近代化の過程の中で初等教育を整備して言語統一を行った。その中で、各地方の独自性や、アイヌ、琉球の言葉などの多様性が失われていくきっかけにもなっている。また、その後わずか30年後には、台湾や朝鮮半島、太平洋の諸島などで、日本語への言語同化政策を行っていくことになるのである。
アルフォンス・ドーデは新聞小説「最後の授業」の中で、普仏戦争(1870~71年)終結のフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ地方の割譲により、母国語を失った人々の悲しみをフランツという少年を通じて描き出している。フランス語嫌いであった少年が、いやいやながらに登校すると、フランス語の最後の授業日であり、翌日からはドイツ語による教育が行われることを知った。厳しかったアメル先生もやさしく迎えてくれてフランス語の授業が始まり、「フランス語は世界中で一番美しい、ある民族が奴隷になっても国語を持っている限りは牢獄の中でカギを持っているようなものだ」と言い、授業の最後に「フランス万歳」と言って終わるというストーリーである。このストーリーは1927年から1986年まで日本の国語教科書に頻繁に使われていた教材である(府川源一郎『消えた「最後の授業」』大修館書店)。
問題は、戦前は、言葉に対する愛着や愛国心を教える小中学校の国語教材として使われていたことである。つまり、自国民に言葉を失うことの悲しみを通じて言葉の大切さを教えながら、日本が他国に対してやっていたことのパラドックスが存在するのである。戦後は、朝鮮戦争を景気に復古的な動きや国語愛として復活したが、1986年には消えた(小学生当時、教わった記憶がある)。
○マスメディアが消した方言
言語の多様性は何も国家だけが押しつぶすのではなくて、マスメディアもその一因を担う。つまり、音声メディアでもある映画、放送(ラジオやテレビ)などは、音声を記録したり、母国語によるコミュニケーションを行ったりするために、アジアやアフリカではラジオ放送が重用されるが、その一方で、その普及により方言を押しつぶしてしまう恐れもある。山一つ越えると、意味や言い方が異なるという時代ではなくなってきたが、逆に言えば、言語の多様性は押しつぶされてくる恐れがある。装置産業であるマスメディアを利用するということは、ある意味である程度の規模を持たなければならない。そのために、少数言語や方言などには対応しきれないかもしれない。
パソコンやネットの普及は肌理の細かいところへの言語対応ができるはずである。ところが、冒頭に挙げたように普及すると見込まれている電子デバイスが画一化されてくると、ますます言語の滅亡に拍車がかかるのではないかとすら思われてならない。それは、普及できなかった電子デバイスの規格が葬り去られるだけでなく、そこに集約された言語の背後にある多数の採用されなかった言語も抹殺されることを意味するのではなかろうか。日本語も例外ではない。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制
2010年7月19日月曜日
「みなさまのNHK」の表現の自由とは?
NHKは7月6日、この夏の名古屋場所の中継中止を決めた。1928年のラジオ放送開始、1953年のテレビ放送開始以来、一貫して続いてきた生中継(戦時中は一時録音中継)を初めて全面的に中止したことになる。中継中止に至る経緯について同日、福地茂雄NHK会長が会見で答え、暴力団関係者との付き合いや野球賭博などの日本相撲協会の不祥事に対する改革の遅れや、中継中止を強く求める視聴者の意見などを「総合的かつ慎重に検討して」決定したという。
NHKに寄せられた視聴者の意見(6月14日~7月5日)約12800件のうち、68%が放送中止を求めるものであったという(朝日新聞7月7日付朝刊)。その後、中止決定が伝えられると、1200件の意見のうち、中継を求めるものが500件で、中継すべきでない200件を上回ったという(東京新聞7月7日付夕刊)。
これはNHKとしても判断ミスによる受信料支払い拒否を回避したいという見方もあるが、それはともかくとしても、中継中止に至る判断自体は正しいものなのか。
○視聴者の意向を隠れ蓑にしていないか?
視聴者の民意に沿ったといえば聞こえが良いが、NHKは報道機関であり、表現の自由の行使者である。放送法1条の2は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」としているし、同3条の1は「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定しており、表現の自由を大事にした上で、他からの干渉を受けることについて慎重でなければならない。
もちろん、視聴者の意向を全く無視しろということではないが、普段から表現の自由、編成の自由を口にしているにもかかわらず、こういうときになぜこれらを極めて簡単に放棄し、後ろ向きに自主規制してしまうのか。単なる再放送の要望等に応えるならば別だが、仮に、視聴者の意向によって放送内容を決めるならば、声の大きいものによって言論・表現の自由がゆがめられている恐れがあるとは言えないのだろうか。
その一方で、まったく逆に視聴者の意向があるにもかかわらず無視した場合もある。1993年のムスタン問題で川口幹夫会長(当時)が国会で謝罪した際もそうだが、2004年9月9日、元チーフプロデューサーの番組制作費用着服問題などNHK自体の不祥事を問われ、海老沢勝二会長(当時)の参考人招致を、「編集権の問題」として報道しなかったことがある(東京新聞2004年9月7日)。このことについては、同年12月19日に放送された特別番組に対する27,000件の視聴者の意見があった中で、中継をしなかったことに対する批判も相当程度あったとされる(東京新聞2004年12月20日付朝刊)。
つまり、「みなさまのNHK」として、視聴者の意向を錦の御旗にして、あるいは隠れ蓑にして、放送内容についての面倒な部分を都合よく回避した詭弁と言えるのではないか。
○視聴者の意見の数は正当なのか
もうひとつの問題は、寄せられた視聴者の意見が放送中止を求めるものが多かったからだというが、科学的根拠に欠ける発言である。統計はしばしば割合だけが大きく扱われることがあるが、本来ならば方法論の検証がなされなければならないし、その結果については考慮すべき誤差を念頭に置かなければならないことである。
冒頭に示した通り、約7割が放送中止を求めたというが、あくまでも積極的に意見を言ってきた中での範囲にとどまる。また、この中には同一人物による複数回の意見をどのように考慮したのかわからないし、相当数のダブルカウントが考えられる。一方で、数多くのサイレントマジョリティーがどのように考えていたのかはここからは分からない。だからこそ、母数は異なるものの、中継中止が決められるや否や中継反対よりも中継を望む声の方が多くなるのである。
NHKが視聴者の意向を大事にするというならば、緊急の世論調査をなぜ実施しなかったのか。
NHKは、放送法9条1の3で「放送及びその受信の進歩発達に必要な調査研究」を業務として行うことになっており、同34条により総務大臣はこれをNHKに対して命ずることができるとしている。これらの規定に基づいて、NHKには放送文化研究所と放送技術研究所が設けられている。前者の放送文化研究所は「豊かな放送文化を創造する」ために設立されており、放送についての全国個人視聴率調査、全国接触者率調査、放送評価調査 放送意向調査、国民生活時間調査や、選挙の世論調査などが行われている。
面接調査などでは緊急の事案への対応ができないかもしれないが、内閣の支持率調査や選挙の投票動向の調査は2~3日程度の電話調査が行われて、それが速報される。もちろん、電話調査の問題点(固定電話に限られることで年齢や社会階層による偏りが生じることや在宅率の問題、本人特定ができるかどうかなど)はあるものの、一定程度の科学的なデータは得られるはずである。視聴者の意向を本当に大切にしたいならば、NHK放送文化研究所が緊急調査を実施して、それを判断材料にしても良かったはずである。
○アウトレットはいくらでもあるが・・・
1993年のムスタン事件の時点では、NHKが中継しなければ新聞に頼るほかなかったかもしれない。しかし、2004年のNHK不祥事での国会中継は、NHKが放送しなくても、朝日ニュースターやMXTV、国会TVなどで伝えられたほか、国会自体のストリーミング(衆議院TV、参議院インターネット審議中継)がある。
また、今回、日本相撲協会はホームページ(http://www.sumo.or.jp/)上でカメラ一台を使ったストリーミング中継を実施している。一台のカメラでの撮影なので、少し見慣れない映像になっているが、それでも現場の雰囲気を知るには十分だと言える。総アクセス数は非公表(同時アクセス9000件)であるものの、7月12日には日本相撲協会のホームページに、通常の10倍近いアクセスがあったという(東京新聞2010年7月13日朝刊)。つまり、放送を中止したからといっても、アウトレット(出口)はいくらでも作れるのである。
一方で、NHKは一定程度の相撲ファンのために、30分のダイジェスト版を放送しているが、なぜ生中継がダメで、ダイジェストならばよいのか。
今回の相撲協会の不祥事の発端の一つは、やくざや暴力団関係者との関与である。
2009年の名古屋場所や九州場所などで、土俵から数列目の「維持員席(一定以上の寄付をした個人・法人、後援団体に配布される席)」が暴力団関係者に譲渡されていた。これらの席に着いていた関係者らがNHKのテレビに映ることで、刑務所に服役中の組関係者らを勇気づけるのではないかという見方が捜査関係者の間にあるという(毎日新聞2010年1月26日付夕刊、5月26日付朝刊)。つまり、NHKテレビの生中継が暴力団関係者へのメッセンジャーになっていたのだという。
もし、暴力団関係者が映っているのが問題だとすれば、なぜラジオはいけないのか、また、ダイジェストはそれを徹底的にチェックした上での放送となっているとでも言いたいのであろうか。あるいは逆に、日本相撲協会のストリーミングはこれを解決したとでも言いたいのだろうか。
本来ならば、NHKが放送中止の判断をするのではなくて、日本相撲協会が名古屋場所を中止すべきだったのである。日本相撲協会は、名古屋場所の実施にあたり、「維持員席」の身分証明を求めたり、監視カメラを設置したりしたというが、そういうことによって迷惑をこうむるのは監視の対象となり、手間がかかる一般のファンである。暴力団等の反社会的勢力との関係を本当に断ちたいのならば、中継中止されたことに対してストリーミングで解決するというのではなく、ファンの信頼を勝ち取るように再出発を真剣に検討すべきなのである。
一番の問題は日本相撲協会の対応であるが、言論機関としての表現の自由、報道の自由を簡単に放棄してしまったNHKも、相撲界の再生を妨げる罪作りな存在になってしまったのではなかろうか。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制
NHKに寄せられた視聴者の意見(6月14日~7月5日)約12800件のうち、68%が放送中止を求めるものであったという(朝日新聞7月7日付朝刊)。その後、中止決定が伝えられると、1200件の意見のうち、中継を求めるものが500件で、中継すべきでない200件を上回ったという(東京新聞7月7日付夕刊)。
これはNHKとしても判断ミスによる受信料支払い拒否を回避したいという見方もあるが、それはともかくとしても、中継中止に至る判断自体は正しいものなのか。
○視聴者の意向を隠れ蓑にしていないか?
視聴者の民意に沿ったといえば聞こえが良いが、NHKは報道機関であり、表現の自由の行使者である。放送法1条の2は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」としているし、同3条の1は「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定しており、表現の自由を大事にした上で、他からの干渉を受けることについて慎重でなければならない。
もちろん、視聴者の意向を全く無視しろということではないが、普段から表現の自由、編成の自由を口にしているにもかかわらず、こういうときになぜこれらを極めて簡単に放棄し、後ろ向きに自主規制してしまうのか。単なる再放送の要望等に応えるならば別だが、仮に、視聴者の意向によって放送内容を決めるならば、声の大きいものによって言論・表現の自由がゆがめられている恐れがあるとは言えないのだろうか。
その一方で、まったく逆に視聴者の意向があるにもかかわらず無視した場合もある。1993年のムスタン問題で川口幹夫会長(当時)が国会で謝罪した際もそうだが、2004年9月9日、元チーフプロデューサーの番組制作費用着服問題などNHK自体の不祥事を問われ、海老沢勝二会長(当時)の参考人招致を、「編集権の問題」として報道しなかったことがある(東京新聞2004年9月7日)。このことについては、同年12月19日に放送された特別番組に対する27,000件の視聴者の意見があった中で、中継をしなかったことに対する批判も相当程度あったとされる(東京新聞2004年12月20日付朝刊)。
つまり、「みなさまのNHK」として、視聴者の意向を錦の御旗にして、あるいは隠れ蓑にして、放送内容についての面倒な部分を都合よく回避した詭弁と言えるのではないか。
○視聴者の意見の数は正当なのか
もうひとつの問題は、寄せられた視聴者の意見が放送中止を求めるものが多かったからだというが、科学的根拠に欠ける発言である。統計はしばしば割合だけが大きく扱われることがあるが、本来ならば方法論の検証がなされなければならないし、その結果については考慮すべき誤差を念頭に置かなければならないことである。
冒頭に示した通り、約7割が放送中止を求めたというが、あくまでも積極的に意見を言ってきた中での範囲にとどまる。また、この中には同一人物による複数回の意見をどのように考慮したのかわからないし、相当数のダブルカウントが考えられる。一方で、数多くのサイレントマジョリティーがどのように考えていたのかはここからは分からない。だからこそ、母数は異なるものの、中継中止が決められるや否や中継反対よりも中継を望む声の方が多くなるのである。
NHKが視聴者の意向を大事にするというならば、緊急の世論調査をなぜ実施しなかったのか。
NHKは、放送法9条1の3で「放送及びその受信の進歩発達に必要な調査研究」を業務として行うことになっており、同34条により総務大臣はこれをNHKに対して命ずることができるとしている。これらの規定に基づいて、NHKには放送文化研究所と放送技術研究所が設けられている。前者の放送文化研究所は「豊かな放送文化を創造する」ために設立されており、放送についての全国個人視聴率調査、全国接触者率調査、放送評価調査 放送意向調査、国民生活時間調査や、選挙の世論調査などが行われている。
面接調査などでは緊急の事案への対応ができないかもしれないが、内閣の支持率調査や選挙の投票動向の調査は2~3日程度の電話調査が行われて、それが速報される。もちろん、電話調査の問題点(固定電話に限られることで年齢や社会階層による偏りが生じることや在宅率の問題、本人特定ができるかどうかなど)はあるものの、一定程度の科学的なデータは得られるはずである。視聴者の意向を本当に大切にしたいならば、NHK放送文化研究所が緊急調査を実施して、それを判断材料にしても良かったはずである。
○アウトレットはいくらでもあるが・・・
1993年のムスタン事件の時点では、NHKが中継しなければ新聞に頼るほかなかったかもしれない。しかし、2004年のNHK不祥事での国会中継は、NHKが放送しなくても、朝日ニュースターやMXTV、国会TVなどで伝えられたほか、国会自体のストリーミング(衆議院TV、参議院インターネット審議中継)がある。
また、今回、日本相撲協会はホームページ(http://www.sumo.or.jp/)上でカメラ一台を使ったストリーミング中継を実施している。一台のカメラでの撮影なので、少し見慣れない映像になっているが、それでも現場の雰囲気を知るには十分だと言える。総アクセス数は非公表(同時アクセス9000件)であるものの、7月12日には日本相撲協会のホームページに、通常の10倍近いアクセスがあったという(東京新聞2010年7月13日朝刊)。つまり、放送を中止したからといっても、アウトレット(出口)はいくらでも作れるのである。
一方で、NHKは一定程度の相撲ファンのために、30分のダイジェスト版を放送しているが、なぜ生中継がダメで、ダイジェストならばよいのか。
今回の相撲協会の不祥事の発端の一つは、やくざや暴力団関係者との関与である。
2009年の名古屋場所や九州場所などで、土俵から数列目の「維持員席(一定以上の寄付をした個人・法人、後援団体に配布される席)」が暴力団関係者に譲渡されていた。これらの席に着いていた関係者らがNHKのテレビに映ることで、刑務所に服役中の組関係者らを勇気づけるのではないかという見方が捜査関係者の間にあるという(毎日新聞2010年1月26日付夕刊、5月26日付朝刊)。つまり、NHKテレビの生中継が暴力団関係者へのメッセンジャーになっていたのだという。
もし、暴力団関係者が映っているのが問題だとすれば、なぜラジオはいけないのか、また、ダイジェストはそれを徹底的にチェックした上での放送となっているとでも言いたいのであろうか。あるいは逆に、日本相撲協会のストリーミングはこれを解決したとでも言いたいのだろうか。
本来ならば、NHKが放送中止の判断をするのではなくて、日本相撲協会が名古屋場所を中止すべきだったのである。日本相撲協会は、名古屋場所の実施にあたり、「維持員席」の身分証明を求めたり、監視カメラを設置したりしたというが、そういうことによって迷惑をこうむるのは監視の対象となり、手間がかかる一般のファンである。暴力団等の反社会的勢力との関係を本当に断ちたいのならば、中継中止されたことに対してストリーミングで解決するというのではなく、ファンの信頼を勝ち取るように再出発を真剣に検討すべきなのである。
一番の問題は日本相撲協会の対応であるが、言論機関としての表現の自由、報道の自由を簡単に放棄してしまったNHKも、相撲界の再生を妨げる罪作りな存在になってしまったのではなかろうか。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制
帰国後考えた、コネクタブルな世界
友達の結婚式があるということで、3年ぶりにハワイを訪れた。
前回は、パートナー企業の営業部長がハワイ島で結婚するというので、行ったのが最後だった。その前は、さらにさかのぼる事3年、親友の結婚式で、これはオアフ島に。その前は、2002年~2005年頃に西海岸に出張で行き来しており、帰りに、毎回オアフに寄って、放電して帰ってきた記憶がある。もう随分行っている計算だ。
この流れの中でイーサーネットがはじめてホテルの部屋まで来たのが、4~5年前くらいのタイミングだった。それ以前は思い起こすと、データポート付きのIWATSUの電話機に、電話のジャックを挿して、AT&A系のISPのフリーダイアルに、「ピーヒャララ」で繋いでメールを取っていたことを思い出した。随分とインフラも整備されてきたわけだ。
今回は、知人の結婚式に夏休みをプラスして、ハワイ島とオアフ島の両方に合わせて8日ほど滞在した。もはや、ホテルの中は、イーサーネットは当然で、WiFiもいたるところで拾える。当然といえば当然である。オアフ島に至っては、ビーチや街中でも公衆WiFiが飛んでいて、まぁ、どこでもコネクタブルな状態であった。
しかし、である。
ホテルのインターネットが「有料」だった。いまどき、「え?」という感じ。格安ホテルなら、わからなくもないが、ハイクラスのホテルである。しかも、24時間で20ドル程度も取る。いまどき、情報を取るのにそんな金を払う人がどこに居るのだろうか、と。しかし、繋がないと困る。8日間も東京を空けるわけだ。メールくらいちゃんとやっとかないと、仕事が滞る。仕方なく、僕からすれば、その途方も無い料金を支払うことにした。ハワイ島はしょうがない、と思いつつ、オアフ島のど真ん中のハイクラスのホテルへ場所を移す。もちろん、部屋にはイーサーネット、そこらじゅうに、WiFiだ。しかし、ホテルのイーサーネットは、やはり料金を求めてくる。それも、前述の料金と同じくらいの値段である。おいおい、またか。ここまでくると、ブロードバンド大国の日本人としては、頭に血が上ってくるため、パソコンの背中を窓に向け、ビーチの公衆WiFiを拾おうとする。これが上手く行った。感度は「非常に強い」を指している。しかし、である。やたらと遅い。仕様に耐えない。イラッ。
ところで、ハワイといえば、「ALOHAnet」である。アロハネットワークは、1970年前後に、ハワイ大学のノーマン・アブラムソン氏などが作り出したコンピュータネットワークである。後の1972年には、かの、ARPANETとも繋がるネットワークで、パケット通信の歴史においては、語らずにはいられない、イーサーネットに強い影響を与えた技術である。その「ALOHAnet」であるが、今日のWiFiと技術的に非常に近いといわれている。例えば、WiFiでよく使われる802.11bだが、これはごく簡単に言ってしまえば、ユーザーが増えれば増えるだけスループットが劇的に低下するのである。従って、実は、WiFiは「公衆」には向かないのである。そこに来て、iPhone、iPadブーム。海外からの旅行客は3Gなんぞは使いたがらない。(日本は、7/21から海外の3Gも定額になるようだが・・・by @masason)。昼間はビーチで右を見ても左を見ても、iPhoneやラップトップだらけだ。この時間帯は、さすがにスループットが遅い。そして夜。部屋に帰った人たちは、ワインを片手に、公衆WiFiに繋いでいるのだろう。夜は夜で遅い。それもすべて、ホテルのネットが有料だからじゃないのか?たまに、スピードが出るときは、急いで仕事をして、急いで、tweetする。そんなストレスフルなネット環境が続いたのであった。
ハワイは島である、西海岸からだって、ジェットで5時間はかかる。海底ケーブルの敷設、そして、島と島の間の通信網の整備など、インフラに資金が掛かるのは、よくよく考えれば理解できる。従って、ホテルのインターネットが有料なのも理解しなければならないのかもしれない。ただ、そこは観光で成り立っている州。これからの時代、インフラ整備に是非頑張ってもらいたいと思った次第だ。
ところで、6年程前にギリシアへ行ったとき、メインランドのホテルのネットも無料、離島(ミコノス島だった)などは、WiFiが飛んでいて、人も少ないこともあってか、快適なネットライフを過ごすことができた。同じく離島のspgのホテルだったが、こちらはインフラ事情が違ったのだろうか。さらに、ニューヨーク⇔東京間で、いくつかの航空会社が試験的に提供していた、インターネットサービスは目から鱗だった。私の記憶に間違えがなければ、すでに全航空会社が採算性の問題から、このサービスから撤退しているが。なにせ、電源も供給され、パソコンがブロードバンドでネットに繋がる。しかも、その時、私はヘッドセットも持ち合わせていたから、Skypeで無料で電話だってできた。手元についている、クレジットカードを通す飛行機の電話機では、相当な料金が取られる。多分、このサービスはその内、復活するだろうから、日本でいう、アジルフォンのようなソフトフォンのインターネット電話サービスを利用していれば、そこに電話だってかかってくるだろうし、会社からの転送電話もreachableだ。しかも、飛行中に、だ。まさに、飛ぶオフィス。さながら、エアフォース・ワン、といったところだろうか。
日本も、新幹線のN700系でサービスがスタートしている。私は出張が豊橋止まりなので、N700系には乗れないのだが、このサービスも広がるだろう。JRや地下鉄も先月くらいから、非公式に、地下でも電波が通じる箇所を増やしはじめている。
さて、とめどもなく書いてきたコネクタブルな世界だが、もう、そこまで来ている。しかし、である。WiFiは、広い領域や多くのユーザーをカバーするには、難しい技術である。一方で、携帯電話会社が持っている電波の帯域というのは、データ通信においても、広域で多くのユーザーをカバーできる。商業的には、いわゆる「無線LAN」サービスよりも、携帯電話会社系のインターネットサービスの方が伸びる可能性が高いと感じるのである。
帰国の日、ホノルル空港で人生で初のオーバー・ウェイトによる、50ドルのペナルティーチャージを受けた。27kgまで、とされるところを、30.78kgで、ペナルティ。厳しすぎやしませんか?その根拠を調べたが、ネット上でなかなかみつからない。どなたかご存知の方がいらっしゃったら、コメントをいただきたい。たった、3-4キロで50ドルって高くないですか?あるいは、その3-4キロが命取りなんです、みたいなコメント嬉しいです。どこを見ても、なんで、27kgなのか、なんで、50ドルなのかが書いていなかったので。
代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論
前回は、パートナー企業の営業部長がハワイ島で結婚するというので、行ったのが最後だった。その前は、さらにさかのぼる事3年、親友の結婚式で、これはオアフ島に。その前は、2002年~2005年頃に西海岸に出張で行き来しており、帰りに、毎回オアフに寄って、放電して帰ってきた記憶がある。もう随分行っている計算だ。
この流れの中でイーサーネットがはじめてホテルの部屋まで来たのが、4~5年前くらいのタイミングだった。それ以前は思い起こすと、データポート付きのIWATSUの電話機に、電話のジャックを挿して、AT&A系のISPのフリーダイアルに、「ピーヒャララ」で繋いでメールを取っていたことを思い出した。随分とインフラも整備されてきたわけだ。
今回は、知人の結婚式に夏休みをプラスして、ハワイ島とオアフ島の両方に合わせて8日ほど滞在した。もはや、ホテルの中は、イーサーネットは当然で、WiFiもいたるところで拾える。当然といえば当然である。オアフ島に至っては、ビーチや街中でも公衆WiFiが飛んでいて、まぁ、どこでもコネクタブルな状態であった。
しかし、である。
ホテルのインターネットが「有料」だった。いまどき、「え?」という感じ。格安ホテルなら、わからなくもないが、ハイクラスのホテルである。しかも、24時間で20ドル程度も取る。いまどき、情報を取るのにそんな金を払う人がどこに居るのだろうか、と。しかし、繋がないと困る。8日間も東京を空けるわけだ。メールくらいちゃんとやっとかないと、仕事が滞る。仕方なく、僕からすれば、その途方も無い料金を支払うことにした。ハワイ島はしょうがない、と思いつつ、オアフ島のど真ん中のハイクラスのホテルへ場所を移す。もちろん、部屋にはイーサーネット、そこらじゅうに、WiFiだ。しかし、ホテルのイーサーネットは、やはり料金を求めてくる。それも、前述の料金と同じくらいの値段である。おいおい、またか。ここまでくると、ブロードバンド大国の日本人としては、頭に血が上ってくるため、パソコンの背中を窓に向け、ビーチの公衆WiFiを拾おうとする。これが上手く行った。感度は「非常に強い」を指している。しかし、である。やたらと遅い。仕様に耐えない。イラッ。
ところで、ハワイといえば、「ALOHAnet」である。アロハネットワークは、1970年前後に、ハワイ大学のノーマン・アブラムソン氏などが作り出したコンピュータネットワークである。後の1972年には、かの、ARPANETとも繋がるネットワークで、パケット通信の歴史においては、語らずにはいられない、イーサーネットに強い影響を与えた技術である。その「ALOHAnet」であるが、今日のWiFiと技術的に非常に近いといわれている。例えば、WiFiでよく使われる802.11bだが、これはごく簡単に言ってしまえば、ユーザーが増えれば増えるだけスループットが劇的に低下するのである。従って、実は、WiFiは「公衆」には向かないのである。そこに来て、iPhone、iPadブーム。海外からの旅行客は3Gなんぞは使いたがらない。(日本は、7/21から海外の3Gも定額になるようだが・・・by @masason)。昼間はビーチで右を見ても左を見ても、iPhoneやラップトップだらけだ。この時間帯は、さすがにスループットが遅い。そして夜。部屋に帰った人たちは、ワインを片手に、公衆WiFiに繋いでいるのだろう。夜は夜で遅い。それもすべて、ホテルのネットが有料だからじゃないのか?たまに、スピードが出るときは、急いで仕事をして、急いで、tweetする。そんなストレスフルなネット環境が続いたのであった。
ハワイは島である、西海岸からだって、ジェットで5時間はかかる。海底ケーブルの敷設、そして、島と島の間の通信網の整備など、インフラに資金が掛かるのは、よくよく考えれば理解できる。従って、ホテルのインターネットが有料なのも理解しなければならないのかもしれない。ただ、そこは観光で成り立っている州。これからの時代、インフラ整備に是非頑張ってもらいたいと思った次第だ。
ところで、6年程前にギリシアへ行ったとき、メインランドのホテルのネットも無料、離島(ミコノス島だった)などは、WiFiが飛んでいて、人も少ないこともあってか、快適なネットライフを過ごすことができた。同じく離島のspgのホテルだったが、こちらはインフラ事情が違ったのだろうか。さらに、ニューヨーク⇔東京間で、いくつかの航空会社が試験的に提供していた、インターネットサービスは目から鱗だった。私の記憶に間違えがなければ、すでに全航空会社が採算性の問題から、このサービスから撤退しているが。なにせ、電源も供給され、パソコンがブロードバンドでネットに繋がる。しかも、その時、私はヘッドセットも持ち合わせていたから、Skypeで無料で電話だってできた。手元についている、クレジットカードを通す飛行機の電話機では、相当な料金が取られる。多分、このサービスはその内、復活するだろうから、日本でいう、アジルフォンのようなソフトフォンのインターネット電話サービスを利用していれば、そこに電話だってかかってくるだろうし、会社からの転送電話もreachableだ。しかも、飛行中に、だ。まさに、飛ぶオフィス。さながら、エアフォース・ワン、といったところだろうか。
日本も、新幹線のN700系でサービスがスタートしている。私は出張が豊橋止まりなので、N700系には乗れないのだが、このサービスも広がるだろう。JRや地下鉄も先月くらいから、非公式に、地下でも電波が通じる箇所を増やしはじめている。
さて、とめどもなく書いてきたコネクタブルな世界だが、もう、そこまで来ている。しかし、である。WiFiは、広い領域や多くのユーザーをカバーするには、難しい技術である。一方で、携帯電話会社が持っている電波の帯域というのは、データ通信においても、広域で多くのユーザーをカバーできる。商業的には、いわゆる「無線LAN」サービスよりも、携帯電話会社系のインターネットサービスの方が伸びる可能性が高いと感じるのである。
帰国の日、ホノルル空港で人生で初のオーバー・ウェイトによる、50ドルのペナルティーチャージを受けた。27kgまで、とされるところを、30.78kgで、ペナルティ。厳しすぎやしませんか?その根拠を調べたが、ネット上でなかなかみつからない。どなたかご存知の方がいらっしゃったら、コメントをいただきたい。たった、3-4キロで50ドルって高くないですか?あるいは、その3-4キロが命取りなんです、みたいなコメント嬉しいです。どこを見ても、なんで、27kgなのか、なんで、50ドルなのかが書いていなかったので。
代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論
2010年6月7日月曜日
地デジ化体験記(その3)
○これは「集団疎開」の再来か?
「地デジ化」の奮闘について書くのは3回目だが、いろいろと考えてみると、これは戦時中などに行われた「集団疎開」の再来なのかと思えてくる節があってならない。
「疎開」は、戦争の惨禍からまぬかせるために主に児童・生徒などの非戦闘員を避難させたり、防空目的や軍事作戦行動上の理由で建物を移設、解体したりすることだが、地デジ化の推進を見ていると、放送局も受信者もアナログ放送帯域からデジタル帯域に強制的に集団疎開させられているように見えてならならないのである。
それが明確な跡地利用の方針もないままに、この「集団疎開」が強制的に粛々と行われていることも問題だが、より根深いのは、その決定がきわめて「民主的」手続きで行われたことである。つまり、2011年までに地上アナログ放送を廃止し、「特定周波数変更対策」と名付けられたデジタル放送完全移行を決めたのは、われわれが選出した代表で構成する国会であり、さしたる大きな議論もなく2001年6月11日に電波法が改正されたのである。そもそも、電波のひっ迫があり、「電波の適正な利用の確保を図るため」として改正しながら、その明確な需要自体が漠然としていたのである(その需要すら当時はあったのか疑わしい)。また、普段から読者・視聴者の利益のためと言っている放送事業者や放送事業者に出資している新聞においても、極めて国策遂行に順応的な論調であった(今も、地デジ推進に関してそうだが)ことも問題ではなかろうか。
たしかに、アナログからデジタルへ移行するのは「時代の潮流」だとして理解できたとしても、衛星、地上、インターネット(光・WiFi)などを総合的に勘案して、視聴者や利用者が使いやすい次世代の規格を作り出したとは言えないのである。どちらかというと、既存の事業者の利益を優先したと思えるところがあってならない。いまさらこんなことを言っても仕方がないと思うかもしれないが、当時から問題提起してきた私としては、地デジ化を実体験してみていろいろと不具合も経験したので、「使い方は後から考えるから、とりあえず退け!!」というやり方に、戦時中の集団疎開を思い出させられてやはり釈然としない。
○跡地利用をめぐる争い
KDDIが2010年6月3日、次世代向けの放送サービス提供を目的に「メディアフロー放送サービス企画」(東京都港区六本木、資本金5000万円)として、同社の出資比率82%で、テレビ朝日(同10%)、スペースシャワーネットワーク、ADK、電通、博報堂(以上4社計8%)との間に設立したことを発表した。一方、NTTドコモはすでに2008年12月14日、フジテレビ、ニッポン放送、スカパーJSAT、伊藤忠と均等出資で「マルチメディア放送企画LLC合同会社」(東京都港区台場・資本金1億8000万円)を設立している。
これらの会社はアナログ放送終了後の電波帯を利用し、携帯電話利用を前提としたモバイル・マルチメディア放送の利用を目的として設立されたもので、前者が米国・Qualcomm社のMediaFlo(TM)を利用したサービスに対して、後者は、現在の日本のデジタル放送方式をベースとしたISDB-Tmmの利用を提唱している。
今のところ、次世代放送サービスについては、一社が選出される見通しとされており(「東京新聞」2010年6月4日付朝刊)、今後の選定作業を通じて、テレビ朝日・KDDI vsフジテレビ・NTTドコモの電波割当争いを前提とした規格争いが行われることになる。
携帯電話のデジタル化は、それぞれの事業者に割り当てられていた電波帯域を再構成するために、事業者の負担において(最終的には利用者の利用料金に上乗せされているが・・・)、送受信機双方の交換が行われ、利用者にさしたる負担もなく行われたが、今回のテレビデジタル化については、ほぼ全額が新しい産業創成と新サービス提供のために、強制的に集団疎開させられ視聴者負担で移動させられ、新たな跡地利用が行われるのである。
それも、既存の放送事業者の出資を得てである。つまり、広告収入の激減により、事業的な行き詰まりを見せてきた地上波放送事業者の新たな出資先を、視聴者の負担で作り出しているのではないかと疑いたくもなるのである。
○エコポイント制度は「エゴ」なのか?
2011年7月というデッドラインが決まっており、地上デジタル受信機の普及を目指したものの、受信機の普及はこれまで非常に低迷してきた。環境省、経済産業省、総務省が共同で「エコポイント」制度を実施して、地デジテレビへの買い替えに役立っている面もあるが、そもそも、この制度自体が「エコ」を標榜していることについて主に二つの問題がある。一つは、販売増による電力消費を考えていないこと、もうひとつは、エコ製品への代替が必要条件でないことである。前者では、以前よりも台数を増していくことに歯止めがない。仮にブラウン管から液晶テレビに買い替えて、40%程度消費電力が抑えられたとしても、2台買えば、以前の消費電力を超えてしまう。後者については、これまで使っている製品を確実に回収しなければならないし、以前に使っている製品よりも消費電力が少なくならなくては意味がない。ところが、大画面テレビを買う場合、以前に使っていたブラウン管テレビよりも、消費電力が大きく増加することがある。こうした点に歯止めがないのは問題である。むしろ、景気刺激策として「エコ」が産業の「エゴ」として利用されているとしか言いようがない。
○地デジに対するささやかな反抗
最近、2011年7月24日で「テレビにさようなら」と言ってはばからない人が、私の身の回りに増えてきた。理由を聞くと、テレビがそもそも面白くないし、テレビを買い替えるだけの金もないからだという。とくに、大学生はテレビをほとんど見ていない。テレビっ子の私としては、ちょっと釈然としないところもあるが、そもそも私自身、リアルタイムでテレビを見ることが少なくなってきただけに、項を改めて「つぶやいて」みたい。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制
「地デジ化」の奮闘について書くのは3回目だが、いろいろと考えてみると、これは戦時中などに行われた「集団疎開」の再来なのかと思えてくる節があってならない。
「疎開」は、戦争の惨禍からまぬかせるために主に児童・生徒などの非戦闘員を避難させたり、防空目的や軍事作戦行動上の理由で建物を移設、解体したりすることだが、地デジ化の推進を見ていると、放送局も受信者もアナログ放送帯域からデジタル帯域に強制的に集団疎開させられているように見えてならならないのである。
それが明確な跡地利用の方針もないままに、この「集団疎開」が強制的に粛々と行われていることも問題だが、より根深いのは、その決定がきわめて「民主的」手続きで行われたことである。つまり、2011年までに地上アナログ放送を廃止し、「特定周波数変更対策」と名付けられたデジタル放送完全移行を決めたのは、われわれが選出した代表で構成する国会であり、さしたる大きな議論もなく2001年6月11日に電波法が改正されたのである。そもそも、電波のひっ迫があり、「電波の適正な利用の確保を図るため」として改正しながら、その明確な需要自体が漠然としていたのである(その需要すら当時はあったのか疑わしい)。また、普段から読者・視聴者の利益のためと言っている放送事業者や放送事業者に出資している新聞においても、極めて国策遂行に順応的な論調であった(今も、地デジ推進に関してそうだが)ことも問題ではなかろうか。
たしかに、アナログからデジタルへ移行するのは「時代の潮流」だとして理解できたとしても、衛星、地上、インターネット(光・WiFi)などを総合的に勘案して、視聴者や利用者が使いやすい次世代の規格を作り出したとは言えないのである。どちらかというと、既存の事業者の利益を優先したと思えるところがあってならない。いまさらこんなことを言っても仕方がないと思うかもしれないが、当時から問題提起してきた私としては、地デジ化を実体験してみていろいろと不具合も経験したので、「使い方は後から考えるから、とりあえず退け!!」というやり方に、戦時中の集団疎開を思い出させられてやはり釈然としない。
○跡地利用をめぐる争い
KDDIが2010年6月3日、次世代向けの放送サービス提供を目的に「メディアフロー放送サービス企画」(東京都港区六本木、資本金5000万円)として、同社の出資比率82%で、テレビ朝日(同10%)、スペースシャワーネットワーク、ADK、電通、博報堂(以上4社計8%)との間に設立したことを発表した。一方、NTTドコモはすでに2008年12月14日、フジテレビ、ニッポン放送、スカパーJSAT、伊藤忠と均等出資で「マルチメディア放送企画LLC合同会社」(東京都港区台場・資本金1億8000万円)を設立している。
これらの会社はアナログ放送終了後の電波帯を利用し、携帯電話利用を前提としたモバイル・マルチメディア放送の利用を目的として設立されたもので、前者が米国・Qualcomm社のMediaFlo(TM)を利用したサービスに対して、後者は、現在の日本のデジタル放送方式をベースとしたISDB-Tmmの利用を提唱している。
今のところ、次世代放送サービスについては、一社が選出される見通しとされており(「東京新聞」2010年6月4日付朝刊)、今後の選定作業を通じて、テレビ朝日・KDDI vsフジテレビ・NTTドコモの電波割当争いを前提とした規格争いが行われることになる。
携帯電話のデジタル化は、それぞれの事業者に割り当てられていた電波帯域を再構成するために、事業者の負担において(最終的には利用者の利用料金に上乗せされているが・・・)、送受信機双方の交換が行われ、利用者にさしたる負担もなく行われたが、今回のテレビデジタル化については、ほぼ全額が新しい産業創成と新サービス提供のために、強制的に集団疎開させられ視聴者負担で移動させられ、新たな跡地利用が行われるのである。
それも、既存の放送事業者の出資を得てである。つまり、広告収入の激減により、事業的な行き詰まりを見せてきた地上波放送事業者の新たな出資先を、視聴者の負担で作り出しているのではないかと疑いたくもなるのである。
○エコポイント制度は「エゴ」なのか?
2011年7月というデッドラインが決まっており、地上デジタル受信機の普及を目指したものの、受信機の普及はこれまで非常に低迷してきた。環境省、経済産業省、総務省が共同で「エコポイント」制度を実施して、地デジテレビへの買い替えに役立っている面もあるが、そもそも、この制度自体が「エコ」を標榜していることについて主に二つの問題がある。一つは、販売増による電力消費を考えていないこと、もうひとつは、エコ製品への代替が必要条件でないことである。前者では、以前よりも台数を増していくことに歯止めがない。仮にブラウン管から液晶テレビに買い替えて、40%程度消費電力が抑えられたとしても、2台買えば、以前の消費電力を超えてしまう。後者については、これまで使っている製品を確実に回収しなければならないし、以前に使っている製品よりも消費電力が少なくならなくては意味がない。ところが、大画面テレビを買う場合、以前に使っていたブラウン管テレビよりも、消費電力が大きく増加することがある。こうした点に歯止めがないのは問題である。むしろ、景気刺激策として「エコ」が産業の「エゴ」として利用されているとしか言いようがない。
○地デジに対するささやかな反抗
最近、2011年7月24日で「テレビにさようなら」と言ってはばからない人が、私の身の回りに増えてきた。理由を聞くと、テレビがそもそも面白くないし、テレビを買い替えるだけの金もないからだという。とくに、大学生はテレビをほとんど見ていない。テレビっ子の私としては、ちょっと釈然としないところもあるが、そもそも私自身、リアルタイムでテレビを見ることが少なくなってきただけに、項を改めて「つぶやいて」みたい。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制
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