2009年8月30日日曜日

逝く夏(2)

(前回からの続き)

 そして、ドン・ヒューイット。彼は初めて大統領候補者たちのテレビ討論会を仕掛けたことで知られる。新聞やラジオに比べて評価の低かったテレビのジャーナリズムとしての機能が、それらに勝るとも劣らないことを証明した人物である。初のテレビ討論会の主役となったケネディとニクソンは、テレビという新手の媒体の前に好対照を見せる。ハンサムで見栄えのするケネディはテレビに打ってつけで一躍支持を伸ばした一方、ニクソンは陰鬱なテレビ映りで大きなダメージを受けた。ラジオで討論会を聞いていた人たちには、その低く落ち着いた語り口でニクソンが勝者だと思われていた、というのは皮肉な話である。TVニュースの先駆者として名高いヒューイットの経歴の中には、TVテロップといった今では当たり前になっている「発明品」などが数々含まれるが、その中でも特筆すべきは「60ミニッツ」というニュースマガジンと呼ばれる形式の新しい報道番組を開発したことにあるだろう。

 「60ミニッツ」は、1968年に始まり、今もって放送が続いている「超」長寿番組である。放送開始当初はなかなか視聴率がとれず、さまざまな曜日のさまざまな時間帯をさまよっていた。しかし、日曜日の午後7時という住処を見出すや現在に至るまで高視聴率を保っている。「報道」という社会的役割と、「利益」というテレビ局の企業としての命題の両方を充足させる番組として、放送史の金字塔とも言える。日本でも「CBSドキュメント」という番組名で放映されており(TBS 毎週水曜26:04)、ご存知の方も多いのではないかと思う。(日本版のほうもさまざまな遍歴があるようだ。)

この番組では1時間が3つにわけられ、それぞれ違うテーマを名物のレポーターたちが追いかけるという構成になっている。ちょうど、雑誌が特集を組むような「ニュースマガジン」という形式である。レポーターたちの事実追及の姿勢には容赦がなく、相手が大統領だと一般市民だと歯に衣着せぬもの言いに、見ているこちらの方が緊張することもしばしば。しかし、この真剣勝負こそが「60ミニッツ」の真骨頂と言える。それを裏打ちするのは老練なレポーターたちのプロ魂。「経験」それが、この番組をして他の追随を許さぬ存在にしているのだ。番組開始当時からのレポーターを務めていたマイク・ウォレスは、2006年に88歳で引退するまでレポーターを続けていた。この番組では40代なんてまだまだひよっ子に過ぎない。30年前にインタビューした相手に、同じレポーターが再度インタビューする、などといった離れ業もこの番組ではしばしばみられる。「老害」はないのだろうかと余計な心配さえしてみたくもなるが、レポーターたちの経験に裏付けられた洞察力とインタビュー力には、確かにプロの仕事の凄みがある。

そういえば、かつて「筑紫哲也のNEWS23」で「老い」が特集された時、筑紫哲也が「60ミニッツ」のオフィスを訪ね、ドン・ヒューイットたちにインタビューをしていたことがあった。思い起こせば、クロンカイトがCBSイブニング・ニュースの締めの言葉として用いていた名台詞”And That’s The Way It Is”も筑紫に引用され、「今日はこんなところです」と「ニュース23」の放送が締められていた。だが、クロンカイトもヒューイットも筑紫哲也も、もういない。そして、実感もないまま、夏が終わろうとしている。

客員研究員(K) 専門:メディア論、映画産業論

2009年8月25日火曜日

逝く夏(1)

 先月のウォルター・クロンカイトの訃報に続き、CBSニュースの名プロデューサー、ドン・ヒューイットが亡くなったというニュースが流れた。週末、かまびすしい選挙報道の中でひっそりと埋もれるように伝えられたのでご存知ない方も多いかもしれない。あるいは、ニュースキャスターであったクロンカイトとは異なり、基本的にヒューイットはテレビの裏方の人だったので、もともと名前も知らない、というのが大半かもしれない。筆者は大学院での研究をきっかけに、この二人の足跡を辿った経験があり、相次ぐ「巨星」の訃報に、時代の移り変わりと寂寥感、そしてかすかな不安とも言える感情を抱いた。

ウォルター・クロンカイトが亡くなったのは7月17日。CBSイブニング・ニュースのアンカーの座を降りてから28年、92歳での死だったが、オバマ大統領が声明を発表するなど、「アメリカで最も信頼された男」の存在感はいまだ衰えていなかった。彼は、第2次世界大戦中に従軍記者として活躍したあと、1950年代にCBSのキャスターとなってからは、看板アンカーとしてケネディ大統領の暗殺を涙ながらに伝え、アポロ11号の月面着陸に欣喜雀躍し(のちに自らも宇宙にいくことを志願。結局かなわなかったが。)、それこそ、アメリカ内外で起こった大小の出来事は常にこの人の言葉を通してアメリカ国民に伝えられた、と言っても過言ではない。しかし普段は自身の意見や感情を抑え、あくまで客観的に出来事を伝える媒介に徹していたという。しかしながら、一度だけその禁を破ったのが、かの有名なベトナム戦争の報道であった。1968年、政府の発表とは裏腹にベトナム戦争が泥沼にはまりつつあることを喝破したクロンカイトは、番組中、激しい口調で戦争の継続に反対を表明したのだ。当然のことながら、アメリカ世論は多いに動揺し、当時のジョンソン大統領が「クロンカイトを失うということは、アメリカの中道を失うということだ」と語ったことはあまりにも有名。一人のニュースキャスターの言葉が、大統領や世論を突き動かすほどの力を持っていたのだ。キャスターの言葉(もしかすると全人格だったかもしれない)に国民が全幅の信頼をおき、キャスターもそれにこたえる存在たらんとした古き良き時代のお話。言葉が、取り繕いと欺瞞をまとったこの国に住む私たちからは想像もできないような世界である。

 じつは筆者は3年ほど前、NYでクロンカイト氏のオフィスを訪れたことがある。残念ながらご本人は不在で、彼の部屋でアシスタントと話をしただけであったが、希代のニュースキャスターの存在がそこここに感じられる空間に身を置くという幸運に恵まれたことを、ただただ感謝するのみであった。印象的だったのは、ジョージ・クルーニーと一緒に写った写真が飾られていたこと。当時、クルーニーはマッカーシズムに真正面から対抗した伝説のニュースキャスター、エド・マローを主人公に「グッドナイト・アンド・グッドラック」という映画を監督しており、そのプロモーションにクロンカイトも一肌脱いでいたのだ。クルーニーの父親もかつて地方局でニュースキャスターを務めた人物で、エド・マローはクルーニー家のヒーローだったという。そして、クロンカイトにとってもまた、マローはキャスターの大先輩であり、ある意味使命感のようなものを持ってプロモーションに参加していたのかもしれない。あるいは、テレビ・ジャーナリズムが物議を醸すようなテーマを避け、無難な報道に終始する昨今のジャーナリズム界にあって、「映画」というメディアを使い「社会派」としてギリギリのテーマに取り組むクルーニーに、ジャーナリズムの「気骨」を見ていた、とも考えられる。

つづく・・・

客員研究員(K) 専門:メディア論、映画産業論