2011年3月27日日曜日

エピソード:ニコロとの思い出(3)

前回からの続き***


 僕は、そのスライドを見て、これが投資家とアントレプレナーのマッチングパーティであることを瞬時に理解した。しかし、東京で経験してきたそれとは雰囲気がまったく違う。何と言うか、非常に品がある。逆に言えば東京のそれが非常に品が無いといっていい。ニコロとはじめて会ったパーティも例外ではなかった。僕は、渋谷でニコロが「残念だね」と切り出したことを思い出し、合点がいった。そして、アントレプレナーの端くれとして、そこに居合わせたことを少し恥ずかしく思った。

 いつの間にか、マイクを握るニコロの言葉はイタリア語から英語に変わっていた。会場の客も、皆、しっかりと英語を理解しているようだったし、僕にとってはありがたかった。不意に、ニコロが言った。

「今日は、皆さんにご紹介したい人が、わざわざ日本から来ています。」

 そう言って、ニコロは、部屋の端っこの階段にもたれ掛かっていた僕を指差して、壇上から「派手に」紹介してくれた。僕は、はっ、と思い、背筋を伸ばし、引きつった笑顔で軽く会釈をした。すると、会場のスタッフがワイヤレスマイクを持って僕の方へ走ってきた。どうやら、この状況で挨拶をしなくてはいけないらしい。困笑しながら、僕は簡単に自己紹介をした。もちろん、会場でアジア人らしき人は僕一人だったし、ニコロが壇上から紹介したせいで、僕は特別なゲストのようになってしまって、パーティがスタートしたとたん、多くの紳士淑女が挨拶を求めてきたので、多いに困惑した。これが僕が、日本での成功者だったら別だが、まだ借金まみれの小さな吹けば飛びそうな学生ベンチャーの経営者だ。

 そんなこんなしている内に、壇上では代わる代わるベンチャー経営者と思わしき人物が登場し、現在の会社の状況を説明していた。何か状況がおかしいと思ったら、これは投資家とアントレプレナーのマッチングのパーティではなく、既に投資した投資家から見たポートフォリオカンパニーの定例発表会だった。つまり、壇上のアントレプレナーは、直近の会社の状況と将来について話し、投資した側は、それを聞いて、質問をする、というものであった。壇上で繰り広げられる「報告会」は非常にエキサイティングであった。職種もITから物流、そしてレストランやホテルまでさまざまで、資本金だけで数十億(円)を超える大きなスタートアップも見受けられた。僕がサーブされる食べ物もそこそこに報告に見入っていると、いつの間にかニコロが隣に立っていた。そして、ちょっと誇らしげに、僕にこういった。

「これは、俺が主催しているパーティなんだ。どうだ、日本のパーティはクズだろ?」

 と。そして、ウインクした。僕は素直に、そう思ったし、

「そうだね。」

 と言った。こうなると色々とニコロに聞きたいことはあったのだが、僕は最初に

「すでにIPOをした企業はあるのか?」

 と聞いた。
 するとニコロは厳しい顔になり、なぜ、そんな質問をするのか、と続けた。僕は慌てて、何か気に障るようなことを言ったとしたらごめん、と言って、ただ気になっただけ、とそう答えた。ニコロはこう続けた、

「IPOした会社は2社ほどある。しかし大事なのは、ここに参加している投資家はIPOと同時に株を1つたりとも売っていないところだ」

 と言った。なるほど、ニコロの心中がだんだんわかってきた。次の僕の質問は的を射ていた。

「ここの投資家は償還期間(redemption period)をどれくらいに設定してるのか?」

 すると、ニコロは笑って言った。

「おまえ、わざとその質問をしたな。僕らが暗に共有してきたのは、そこなんだよ」

 と。そして、約半数の投資家は償還期間を設定していない、といい、残りの半数の投資家は償還期間が20~30年程度だと、言った。
 僕は、正直、面食らった。それじゃ、どうやって、キャピタル・ゲインを得るのだと、目を丸くして聞いた。するとニコロは、また大笑いして、

「アメリカ人じゃないのに、そんなことを言ってちゃだめだ。日本に真のアントレプレナーが育たないとしたら、それはアメリカ型の真似をしているからだ」

 と言い放った。

 つまり、こういうことだった。
 ここに参加している投資家達の多くは貴族出身の人やファミリー企業を何世代もかけて成長させてきた人たちだった。彼らは、投資に対して直近の「リターン」を考えていないのである。では、何か。ニコロの言葉を借りれば、「投資は結婚に近い儀式」だと。つまり、アメリカのベンチャーキャピタリストの言う、「EXIT」が存在しない。親は子供の結婚に対して一般論として結果を求めない。結婚により孫が生まれれば、子供と同じように孫にも「無償の愛」を注ぐ。そして、それは決して「見返り」を求めない。これは万国共通である。ここでの投資行為は、その事実に似ているという。

 先ほど来、壇上で話しているアントレプレナーのような人たちは、それを聞いている投資家が投資をした一代目であることもあれば、二代目であることもあると。また、投資をした方も、投資をされた方も三代目という事例もちらほらあるという。これには、驚いて開いた口が塞がらなかった。しかし、ビジネスに本当に、見返りを求めない愛など存在するのだろうか。僕は、そこをニコロに確認した。すると彼はこういった。

「正確には、見返りを求めていないわけではない。ここに居る投資家はEXITを由としない連中が多い。彼らは、未上場の企業に自分達の英知をすべて注ぎ、そして、長い年月をかけて、going concern の状態にし、配当を受け取っている。償還期間が事実上無いわけだから、そのビジネスが続く以上、配当を受け取り続けるわけで、それにより、リクープを迎え、そしていつしか、税引き後でも安定的で充分な利益が手にできている」と。

 僕は、日本の投資環境を振り返った。多くの大手VCの償還期間は5年前後。5年が近付くと、「担当者」は、そわそわし出し、IPOが出来ないのなら、どこかへできるだけ損切りをしない程度にEXITしたがる。その時のなりふり構わない様といったら、「品」のかけらもない。一方、ニコロ達のやっていることからは「尊さ」を感じた。そして、それは、見返りを期待しない「無償の愛」と言っても過言ではないとさえ思えた。

 ニコロは、イタリアとチェコで繊維工業を営むファミリーの次男として生まれた。兄が3代目として社長を継承し、ニコロも大学を卒業後、家業に入った。その中で、ここ10年は、投資部門の役員として、この会を主催しており、彼のポートフォリオカンパニーも数社あるという。

 さて、僕には、どうしてもニコロに聞きたいことがあった。それは、どうして、僕をここに呼んだのか?ということ。ニコロはまた、大笑いしながら答えた。

「お前は渋谷で、『スタートアップで借金まみれだ』と俺に言ったな?だから呼んだ。そういう奴は、ここに来る資格がある」と。

 僕は最初釈然としなかったが、彼の説明を聞くと納得がいった。
 当時の日本のスタートアップは、とにかく米国型を何の批判も無しに真似していた。アントレプレナーは、ビジネスプランを書き、アメリカのビジネススクールを出たというすばらしい肩書きをそこに添え書きしておけば、最初から高いバリュエーションで「イージーマネー」を手にすることができた。ニコロはそれに全力で反対していた。スタートアップは「地べたをはいつくばるようなもの」とは彼の言葉。これを経験しないと、彼は認めないと。僕は、地べたをはいつくばっている、つもりはなかったが、イージーマネーには嫌悪感を抱いていたし、だからその分、借金まみれになっていた。そこが、ニコロの食指に触れたらしい。実際、ニコロの会に出席しているスタートアップは、自己資金、ファミリーからの借金、銀行からの借金で事業をスタートするのが一般的だという。そして、時間をかけてビジネスを成長させ、そういった借金にしっかりと利子をつけて「返済」し、さらに事業を拡大し、長い「歴史」を作る中で資金が必要になったとき、彼らは信頼する銀行と同様に、ここに参加している投資家達を信頼するのだと。

 すべてのヨーロッパのスタートアップがこうであるわけではない。むしろ、ニコロのやっていることは非常に「異端」かもしれないと、本人は認めている。しかし、その理念と哲学には、われわれが学ぶべき重要な要素が含まれていると、当時強く感じたことを今でも覚えている。

 リーマンショック後、日本のビジネススクールでは何を教えているか。それは、相変わらずアメリカ型のモデルを土台にしたものであり、そこで学ぶ学生たちも、それに「不用意」な憧れを抱いている。その中で、教鞭を取る僕は、少なくとも、ニコロの哲学を、そして彼が実行していた暗黙知を形式知に置き換えて、「異端」であっても、煙たがられても、伝えなくてはならないと思うのである。

 翌朝の城の朝はすがすがしかった。初夏の新緑の香りが僕の部屋にも入ってくる。大きく深呼吸をし、そして、ニコロに心から感謝した。荷物をまとめて、車寄せまで行くと、薄汚れたロッソのアルファロメオが止まっていた。僕の荷物をトランクに積みながら、今度はゆっくり来い、とニコロは僕に言った。

 僕は、ベルボーイや城のスタッフに例を言って、この大きな古城を見上げた。さながら額縁から飛び出してきたような古城からは、その歴史の重さを感じた。

 帰り際、山岳地帯を右へ左へステアリングをきっているニコロに、ふと思ったことを聞いてみた。

「そういえば、あの城は誰の持ち物なの?」

ニコロはまた、大笑いしながら言った。


「俺のだよ」



(おわり)



代表主任研究員(T) 専門:情報社会論、メディア技術論

2011年2月28日月曜日

エピソード:ニコロとの思い出(2)

前回からの続き***


 僕は早速、ローマ行きのJALを予約した。少々の好奇心と、多大な懐疑心が入り混じりながら、本当にこれで良いのか何度も自問自答したが、どうしても僕にはニコロが悪い奴には思えなかった。ほどなくして、ニコロ本人から僕にメールがあった。渋谷の交流会でちょっとした会話をして以来、はじめてのメールであった。

「参加ありがとう。心から嬉しい。エアーも宿も何も心配することは無い。ローマで会おう。 ニコロ」

 僕は慌てて、自分の予約を取り消し、翌月、ニコロのアテンドによって成田からローマへ飛び立った。イタリアへはそれまでに何度か行ったことがあったが、そのほとんどは、僕の好きな東欧から電車での入国だったから、直行便に乗ったのは、これがはじめてだった。驚いたことに、ニコロの予約したシートは、ビジネスクラスだった。僕は何かの間違えかと疑ったが、確かにビジネスクラスだった。一体、ニコロとは、何者なのだろう。そして、最も重要な問題として、一体彼は僕に何を期待しているのだろうか。その答えは、そう長く待たずに明らかになるのであった。


 ローマ空港に降り立つと、改装中の国際線ターミナルは閑散としていた。預けた荷物を受け取って、ゲートの外に出ると、ニコロが満面の笑みで出迎えてくれた。相変わらずのイタリア人っぽい髭面に、ぴしっとプレスされたダークスーツが良く似合っている。力強い握手の後、彼は僕のトランクを転がして駐車場に案内してくれた。その間、ビジネスクラスや宿のアテンドの礼を言った。ニコロは、ウインクをして、気にすることは無い。日本からの大事なお客だと伝えただけだと、言った。

「さて、これから会場まで、3時間ほどかかる。遠慮しないで、ゆっくり寝てくれ」

 ロッソのアルファロメオのトランクに僕の荷物を入れながらそういった。僕が助手席に乗り込むや否や、荒々しくミッションを駆使して、車を走らせた。空港を出てハイウエーに乗ると、辺りはヨーロッパならではの平原だった。僕にとっては見慣れた光景だったが、いつものバックパックの旅行と違って、今回は少し緊張していた。なにせ、この後に何が待っているのかまったくわからないのだ。初夏の少々強い日差しがフロントウィンドーから差込み、その暖かさもあってか、いつの間にか僕は寝入っていた。次に目を覚ますと、ニコロはちょっとした山岳地帯を右へ左へとステアリングをきっていた。

「少しは寝られたか?もう少しだ。」

と、ニコロは言った。

 ほどなくすると、新緑の木々に囲まれた車一台がやっと通れる道に入り、遠くに鉄格子でできたゲートらしきものが見えた。ニコロはサンバイザーに挟んであったリモコンを使って、このゲートをくぐり、そしてさらに、車を走らせた。次第に、手入れの行き届いた木々が見えてきて、大きな芝生の広間に出た。

「さっ、着いたぞ。」

 僕は、目を疑った。
 芝生の広場の先には、大きな古城が断崖絶壁にせりたっていたのだ。

「ここは?」

 やっとの思いで、そう聞くと、

「パーティ会場だよ。ただし、渋谷のパーティとは訳が違うけどね」

 そういって、ニコロはまたウインクしてみせた。
 車寄せに近付くと、ベルボーイが2名近寄ってきた。ニコロとはまったく違った綺麗な英語で、

「ようこそ、お待ちしておりました」

 と言って、僕を車から降ろし、続けて静かに荷物も下ろした。ニコロは用事があるから、後は彼らについていけ、とぶっきら棒に僕に言って、そそくさとどこかへ行ってしまった。僕はそのベルボーイについて、城の中に入った。

 中に入ると高い天井には、光取りの窓と、すばらしい天井絵があった。外の日差しは若干強かったが、中はひんやりとしていた。僕はベルボーイが案内するがままに部屋へ通された。

「ここが、あなたの部屋です。何かわからないことがあれば、いつでもお呼びください」

 そういって、彼らはすぐに消えた。

 ベッドの上に、書置きがあり

「パーティは、19時から、それまでゆっくりお休みください」

 とあった。時計を見るとまだ、16時だった。僕は窓を開けて、ちょっとしたホテルのスイートルームほどある部屋のベッドに横になると、いつの間にか眠っていた。

 次に目が覚めたのは、部屋の電話が鳴った時だ。電話の相手は、相変わらず、イタリア訛りが酷い英語のニコロの大声だった。

「良く、寝られたか?スーツに着替えて、ホールに下りて来い」

 と言って、ガシャンと電話を切った。僕は、メールで指示されていた通り正装の支度をしてあったので、軽くシャワーを浴びて、それらを身につけた。窓から外を見ると、車寄せには、ぞくぞくと正装の人々が、車で押し寄せていた。

 着替えを終えた僕は、早速、部屋を出て、ホールらしきところを目指して階段を下りた。下の方では、ざわざわと沢山の人が集まっている雰囲気がする。さて、何のパーティだろうか。胸が高鳴るのを感じた。

 ホールには、ざっと、200人ほどの人が集まっていた。そして、平行に置かれた長テーブルには、オードブルがすでに用意されており、人々はウェルカムドリンクを飲んでいた。もちろん、僕は知っている人などいるはずもなく、端っこの方で、一人コーラーを注文して、その不思議な光景を見ていた。

 すると、イタリア語のアナウンスの後、壇上にニコロが登場した。会場の人たちは、大きな拍手を贈った。どうやら、彼がこの会の主催者らしい。すべてがイタリア語なので、僕には何のことかわからないのだが、次の瞬間、壇上のスクリーンに映し出されたスライドを見て、ようやくこの会の主旨が理解できた。最初のスライドにはこう書かれていた。

「第20回、デルモンテ城、インキュベーター・ミーティング」


(つづく)



代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2011年2月27日日曜日

エピソード:ニコロとの思い出

 今年は一足早く、春の訪れを感じます。この時期になると、いつも思い出す出来事があり、他愛もない経験ではあるのですが、なかなか意義深い時間だったので、このブログに数度に渡って書き残そうと思います。なんだ、「情報通信メディア研究所」って大題目と、ぜんぜん関係ないじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は、間接的に関係があって、しかもこの分野の「環境」において、非常に重要な指摘もあったりします。というか、できる限り、それがわかるように書いてみようと思います。それでは。

 ちなみに、この「エピソード」については、6-7年前にとある雑誌に書いたことがあります。念のため、同誌の私の担当に確認したところ、こういう形で再度書くことは何の問題も無い、とのことでした。もし、昔読んだ方がいらっしゃったら、思い出しながら再度お読みください。

***


 1990年代半ば、僕がまだ大学生だったころ、渋谷で開かれた異業種交流会に出席した。僕は起業して2年目くらいのときで、まだまだ事業は順調とは到底いえない状況だったが、なんとかかんとか、インターネットの会社の切り盛りをしていた。この異業種交流会には、インターネットバブルに乗ってひと財産を築いた人から、これから「アメリカン・ドリーム」を夢見て情報交換に来る人、政治家や、ベンチャーキャピタルの連中など、多くの人たちでごった返していた。今の日本から見れば、「ああいう時代もあったか」と思わせるほどの熱狂ぶりだった。

 僕はこういう場があまり好きではなかったし、特にこれといって資金を調達するつもりもなかったので、一通り、知り合いに挨拶を済ませたら、入り口近くのテーブルに腰を下ろし、この熱狂振りを肴に飲み物を飲んでいた。挨拶をしなくてはならない人には顔を見せたし、そろそろおいとましようと思っていた頃、一人の外国人が、「ふーっ」とため息をつきながら、コーラを手に持って僕の隣に座った。そして、ひどいイタリア訛りの英語で

「残念だね」

 と僕に言った。

 僕は、彼がどういう意味でそう言ったか深読みはしなかったが、少しうなずいて、また、会場の熱狂振りを観察しはじめた。彼が「お前は酒を飲まないのか?」と言った。僕も彼と一緒のコーラを手にしていた。僕は生まれながらに酒は飲めない。下戸である。そう伝えたら、彼も同じだといって、肩をすくめた。イタリア人で酒をのめないと肩身が狭い、と彼が言うから、日本でも一緒だね、と僕は答えた。彼の名前は、ニコロと言った。僕よりも少なくても一回りは年上のイタリア人らしい体格の良い男だった。僕は軽く挨拶を済ませると、そこを後にしようと立ち上がった。しかし、彼が、せっかくだからもう少し話そうというので、僕がまだ大学生だとか、自分がやっているビジネスのこととか、大学での研究のこととか、一通り自己紹介をした。彼はその間、何も言わずにずっと座っていた。

 一通り僕が話し終わると、「お前は、ここで自分のビジネスをアピールしないのか」というから、僕は、下を向いて「僕は、こういうところが好きじゃない」と本心を言った。ニコロは、僕の肩をポンと叩いて、僕の名刺を見ながら、また今度連絡する、と言って、最後にイタリア語で何かを言って、笑顔で手を振ってその場を立ち去った。

 あれから何ヶ月経っただろうか、冬の寒さが和らぎ、春の香りを感じられる季節になったころ、一通の手紙が海外から届いた。ぱっと見、差出人に心当たりがなく、ちょっと疑い深く中を開くと、何かのパーティの招待状だった。

 招待状の間に、破ったノートで、

「是非、君を招待したく、待っている。 ニコロ」

 という言葉が添えられていた。

 少し考えて、「あっ!」と、やっと思い出した。

 あの交流会で会ったイタリア人か!
 僕は、オフィスの自分の椅子に深く腰を掛け、少し考えてから、招待状に書いてあった連絡先に、これ以上ないくらい丁寧な英語で「参加」の意思を書き、ニコロによろしく伝えるように付け加えた。


(後半へ続く)


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2011年1月31日月曜日

インターネット、「自由という名の政策」

 エジプトの政変で、インターネットがブラックアウトされた。ネットワーク・セキュリティ会社、Arbor Networks社のエンジニアが、エジプトのインターネットブラックアウトを表現した興味深いヴィジュアルがこれ(http://mashable.com/2011/01/28/egypt-internet-graphic/)である。1月27日の午後6時少し前を境に、トラフィックが激減している。

 一方、ほぼ時を同じくして(日本時間の26日)、米国のオバマ大統領は、上下両院合同会議において一般教書演説を行っていた。この中で、オバマ大統領は、インターネットの技術に言及し、「グーグル」や「フェイスブック」という民間企業を名指しで賞賛し、景気の回復に寄与すると同時に「アメリカの生んだもの」と言った。

 エジプトはその、アメリカの生んだ「インターネット」を、政変において、まさに、ブラックアウトしたのであって、このケースでは、いくつかの争点が浮き彫りにされたと言っていい。

 まず、この日私は、Twitterで繰り返しエジプトのインターネットの記事を引用しながら、「インターネットが民主的な『手続き』であることが証明された」というツイートを反射的に行った。つまり、独裁政権や一党独裁下の国家において、インターネットはたびたび制限されてきた。昨年も数度、仕事で上海に行ったが、ホテルのネットに接続すると、Twitterはブロックされており使えない。仕方なく、日本で利用しているスマートフォンのローミング回線からTwitterにかろうじて接続したことを思い出す。このように、民主主義を取らない「領域」において、その時の権力にとって、インターネットというテクノロジーは民主化を助長する、強い脅威となるのである。特に、Twitterやフェイスブックといったソーシャルサービスは、言論の自由を「謳歌」する傾向が強いのである。

 従って、この度、エジプトでのインターネットの遮断において証明されたのは、インターネットがいかに民主的な手続きであるか、ということなのである。もう少し議論を深めてみよう。正確に言えば、インターネットそのものではなく、インターネット上のサービスにおいて、民主化を結果として促進するようなサービスが世界的に人気を集めているというのが、正しい言い回しと思われる方もいるかもしれない。無論、それも狭義の意味ではその通りであるが、インターネットが確立される歴史、つまりは、パケット通信から、TCP/IPが標準のプロトコルとなる歴史は、極めて「民主的な手続き」でそれが行われてきた。遡れば、1957年のスプートニックショック以来、米国は「オープン」というキーワードのもと、米国だけではなく、世界中の研究機関と連携してインターネット的なるものを研究開発してきた。テクノロジーそのものは、極めて無機質である。つまり、「internet」は、「net」と「net」を「inter(繋ぐ)」技術そのものであるが、それが「the Internet」となった瞬間、民主的な手続きが前面に押し出され、いわば、政治性を帯びるのである。

 つまり、先ほどの、オバマ大統領の一般教書演説なのである。久しく、アメリカのトップがインターネットに触れた演説を聞いてこなかった。クリントン、ゴア政権のときは、特に時のゴア副大統領が、熱心にインターネットについて語っていたのであった。しかし、ここにきて、Twitterやフェイスブック、そしてグーグルといったサービスが、世界を石鹸したことを受け、経済復興のシンボルとしても、十数年ぶりに米国のトップが明確にインターネットのことを口にしたのである。しかし、皮肉にも、まったくその日に、エジプトのブラックアウトが起こる。それによって、さらに、インターネットが民主的手続きであることが、強調されることとなったのである。

 一方で、民主的手続きであるからといって手放しで喜べない側面もある。果たして、インターネットは、世界のデモクラッツを代表していると言って良いのであろうか?先述の民間企業、Twitter、フェイスブック、グーグルは、すべて、米国の企業であることは周知の通りであろう。インターネットが出現して以来、ハードにしてもソフトにしても世界を石鹸するようなサービスは、そのほとんどすべてが米国発であると言って過言ではない。つまり、「自由という名の『政策』」がそこには見え隠れする。これは、長いこと、私が言い続けてきたことでもあるが、インターネットそのものが、自由という名を冠した「政策」であることは、ほとんど事実である。インターネットという性善説的なインフラにおいて、その自由を謳歌しているのは、米国的なビジネスであり、思想なのである。したがって、それが、アメリカと敵対する国家の元では制限されることとなり、インターネットという、本来はピュアな「テクノロジー」であるはずのものが、政治性を帯びる結果となるのである。無論、繰り返しになるが、今回のエジプトの件で、インターネットが民主的手続きであることが、さらに証明されたことに違和感は覚えないし、そのこと自体はむしろ喜ばしいことであると考える。このように、民主化の手続きをインターネットが助けるのであれば、それは止めるべきことではない。しかし、それが「アメリカなる物」としてのインターネットであったとするならば、我々はいささか、気を付けなければならないのではないだろうか。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年12月30日木曜日

ウェブサービスの生態系

 2010年最後の投稿は、このタイトルで考えてみたいと思う。

 「ウェブサービスの生態系」ができはじめている。
 海外のITメディアでは、少し前から「Web Ecosystem」という言葉が使われている。「生態系」とは一体何か?メディア論の歴史を紐解くと、メディアの生態系についての研究がちらほら見受けられるが、そういった広義の意味ではなく、あくまでもインターネットの世界、また特に、ウェブサービスの世界について考えてみたい。

 WEB2.0という言葉が語られて久しいが、WEB1.0の時代には、「ウェブサービスの生態系」は存在しなかった。つまり、情報の出し手と受け手が、「比較的」明確に分かれていた。それが、WEB2.0の時代になると互いに交差するようになってきたというのがここ20年弱の流れである。

 もっと、話を個別具体的にわかりやすくするために、グルメに関する有名ウェブサービスを例にとって考えてみよう。例えば「ぐるなび」。サービス単独で一部上場を果たすまでになったこのサービスは、名実共に、歴史も長く売上も大きなサービスである。しかし、WEB1.0のビジネスモデルと言われ、どうやら、「ぐるなび」をカバレッジしている、株屋からは「売り」銘柄のようである。つまり、加盟店から「ぐるなび」へのページ掲載料を強大な営業力で取り、そして次々と加盟店を増やしていく、このビジネスモデルは、WEB1.0の典型であり、WEB2.0の時代にはついていけない限界があるという見方である。確かに、「ぐるなび」のビジネスモデルに、「食べログ」で言うところの「★」評価を付けた瞬間、「ぐるなび」は崩壊する。つまり、高い掲載料を支払っている加盟店(=お店)の評価が低いことが公にさらされると、加盟店が逃げる可能性があるからだ。しかし、現在のインターネットユーザーは、実は、「ぐるなび」モデルよりも「食べログ」モデルを望んでいる。つまり、色がついていない多くのユーザーの「★」評価が最も信じられる、という類の言説である。これは、確かにその通りではないだろうか。本を買うときに、本屋に並んでいる本の帯の言葉を信用するよりも、Amazonのレビューを見た方が断然に「ためになる」のと一緒である。さらに進んで最近は「Alike.jp」というサービスも出てきた。これは、「食べログ」の口コミをさらに進化させて、いわゆる「ソーシャル」要素をメインに押し出したサービスである。つまるところ、TwitterやFacebookやmixiの情報がソースとなるのである。

 さて、話を元に戻そう。「ウェブサービスの生態系」という意味においては、この例にある一番古参の「ぐるなび」と新参者の「Alike.jp」の比較がわかりやすい。「ぐるなび」は他のウェブサービスとの連携を原則として行なっていない。いわば、「ぐるなび」は「ぐるなび」で完結しているのである。一方の「Alike.jp」は、上述のように各種ソーシャルサービスからの情報をソースに、サービスを作り上げている。これは、ウェブサービスの生態系の中に自分のサービスを置いているといえる。この裏には、「API(Application Program Interface)」の公開、というWEB2.0時代の流れがある。

 WEB1.0時代までのサービスは、自分たちのサービスが溜めた「データ」は財産であるから、一生懸命に守っていた。しかし、WEB2.0時代のサービスは、その財産たる「データ」をAPIを通じて、一般に広く開放・公開していこう、という流れが急激におこったのである。従って、TwitterもFacebookもmixiも例外なくAPIを公開しており、これらに「繋ぐ」ことで、「Alike.jp」のようなサービスが可能になったのである。つまり、これが、「ウェブサービスの生態系」の「一部」である。無論、「ぐるなび」もAPIを公開はしているものの、ビジネスモデルがWEB1.0のままであるため、このAPIが上手く機能しているとは言いがたい。「上手く機能しているとは言いがたい」というのはどういうことかといえば、APIを使って、そのAPIを公開しているサービスの資産を使って新しいサービスを作った人達が、「商売ができているか否か」である。本件に限らず、これまでも、多くのサービスがAPIを急激に公開していきた。しかし、そのAPIを使ったサービスが「商売」として成り立つ例は極端に少なかった。

 しかし、特にTwitterの登場以降、そのAPIを利用したサービスでも「商売」が成り立つ例が目立ってきたのである。先ほど生態系の「一部」と書いたのは、「商売が成り立つか否か」という線引きのためである。本来的なエコロジーは、サステインナブルでなければならない。つまり、コストを吸収できる売上がなければ、エコロジーとは言えない。そういう意味で、広義のNPO活動で無い限り、完全な「ウェブサービスの生態系」を成しているという意味においては、大元のサービスだけではなく、APIを通じたサービスがプロフィッタブルであることが前提であると思う。

 つまり、上述の例で言えば、「Alike.jp」はTwitterの生態系を成している、といえるのである。その他にも、Twitterに写真掲載をするサービスや、140字対策で、URLを短縮するサービスなど、Twitterの資産を存分に利用し、広告収入で商売を可能にするサービスは最近になって多く立ち上がってきた。これが本当の「ウェブサービスの生態系」なのである。一方で、大元のサービスが、何らかの理由でサービスを中止したり、あるいは、APIの公開をやめてしまったり、または、APIが何らかの理由で動かなくなってしまうことに対する不安は大きい。実際、日本のいくつかのサービス(ここでは名言は避けるが)において、APIを限定的に公開しており、実際APIの利用を審査性にして、自社に不利なサービスが少しでもあると、APIを利用させない事例も見られる。しかし、大々的に「APIを公開」とプレスリリースを出していたりする。これは、本当のAPIの公開、つまりは、本サービスを中心とした生態系の自然発生を促す行為にはなりえないのではないか。

 WEB2.0が語られた時代、つまりは、日本においては、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』で語られた世界では、まだこの「本当」の「ウェブサービスの生態系」については触れられていなかった。しかし、今まさに、世界的に大きなサービスを中心とした生態系ができつつあり、同時に、WEB2.0時代が完成に近付いているタイミングなのかもしれない。「ウェブサービスの生態系」については、今後も注視していきたい。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年11月18日木曜日

[尖閣問題]「あの映像」から読み取れること、読み取れないこと

 尖閣諸島(中国名・魚釣島)沖で2010年9月7日に起きた海上保安庁の巡視船「よなくに」と漁船「みんしんりょう5179」(表字外のためひらがな標記)の事件の映像がyoutubeに流されたことについて、毎日のように大きな扱いで報道されている。

 多くは、あの映像を国家公務員である海上保安庁の保安官が流出させたことについての国家公務員法の守秘義務違反のみが問題とされているようだ。国家公務員の守秘義務違反については、外務省機密電文事件(西山事件)や裁判員制度の裁判員の守秘義務について語られることが多く見受けられる。流出させた行為については別途検証の必要があろう。

 しかし、あの「尖閣諸島中国漁船衝突事件 流出ビデオ 4/6」の映像を見る限りにおいて、読み取れること、読み取れないことについてのコメントがほとんどなく、また、その限られたコメントもかなり「被害者」という視点から述べられたものであるので、もうすこし冷静に、かつ客観的に「あの映像」を分析してみたい。

 あらかじめ断っておくが、私は船舶の操縦免許を持っているわけではない。ただ、船舶で少し仕事をしていた経験があるので、その限りにおいて、興味を持っている、あるいは見聞きして調べたという範囲で今回の映像を検証してみたい。


○船は急に止まれないし、曲がれない

 「狭い日本そんなに急いでどこに行く」「車は急に止まれない」という標語が1970年代の交通戦争を象徴するものとして使われたが、車以上に「船は急に止まれない」のである。

 車はタイヤと地面の摩擦によって急加速もできるし、急減速もできる。ところが、抵抗の少ない船はよりとまりにくいのである(もちろん抵抗がゼロであるわけではなく、造波抵抗などがあり、それを軽減するためにバルバスバウ(球状船首)やスクリューの設計などが重視されるのだが)。高校の物理で「慣性の法則」を教えているものと思うが、止まっている物体、あるいは等速度で動いている物体は、力を受けない限りその状態を変えることはなく、動いている物体は摩擦によるエネルギーの放出をしない限り、止らないのである。水にも抵抗はあるが、陸上や空中を移動する以上に抵抗が少ないので、あれだけ巨大な船が相当の重量物を運んでも採算に見合うのである。

 それでは、どのくらい止まりにくいか。船は発注主の依頼によって創られるオーダーメイド船が通常であるため、実際に造ってから進水して儀装がほぼ完了した後、海上公試(公式試運転)を行う。その際に、旋回試験、速力試験とともに、クラッシュ・ストップ・アスターン(クラッシュ・アスターン)試験を行う。「クラッシュ」とは、エンジンをクラッシュさせる恐れのあるほど全開運転であり、「アスターン」は「後進(後退)」を意味する。緊急停止の際にはそれこそ、機関を故障させるか、あるいは寿命を大幅に縮めるほどの全開運転を行うので、かつて日本海軍の軍艦の全開を伴う運転は海軍大臣の許可がなければできないぐらいであった。

 さらに、スクリュー船の場合には、止まりにくいだけでなく緊急停止時に舵が効かない。豪華客船のように乗り心地を重視してスクリュー自体が回転して舵を切る船もある(燃費は多少犠牲になる)が、おおよその船はスクリューの後ろに舵を設けている。通常の運行時は、スクリューの起こす力を舵に当てて、面舵、取り舵をとることができるが、スクリューを逆転させてしまうと、水流がまともに舵に当たらずに効かなくなってしまうのである。どのくらい止まらないのかというと、池田良穂氏の「船の最新知識 タンカーの燃費をよくする最新技術とは?」(ソフトバンク新書、2008年)で紹介されている事例で言えば、20万トンタンカーならば、緊急停止の指令後、進行方向に約2km、横方向に約2kmずれてしまい、完全停止までに14分40秒ほどかかってしまうのである。規模は違うものの、漁船であれ、止まりにくいことは想像できるのではないだろうか。


○「あの映像」から読めることは?読めないことは?

 そのような前提を基に、「あの映像」をみてみよう。この映像を見る限り、①海上保安庁の巡視船「よなくに」が中国漁船にぶつけられた、②「よなくに」が中国漁船にぶつかった、③「よなくに」が意図的に中国漁船にぶつかりに行った、という三パターンが読み取れるし、読み取れないのである。

 つまり、どういうことかというと、実際の映像を見ながらのほうが分かりやすい。問題の映像は11分25秒だが、衝突自体は2分15秒から17秒の間に起きている。注目していただきたいのは、二点ほどある。

 一つは中国漁船の動きであり、もう一つは、「よなくに」自体の中国漁船との位置関係である。
 まず、中国漁船の動きだが、衝突の直前の1分30秒からエンジンをかなり回している。これに対して、海上保安庁の職員と見られる撮影者は、「また、黒い煙が上がって、放出流が出ています。前進行足(ぜんしんいきあし)です」といっている。引き続き、1分51秒から58秒ごろに中国漁船はエンジンを再び回している。これを見た撮影者は「またエンジンの回転が上がりました。えー、本船の方に船首を向けてきます。挑発的です。本船に船首を向け挑発的な動きを見せています」とコメントしている。実は、このエンジン全開と見られる煙の放出は中国漁船が前進しようとしたのか、後進(後退)、つまりブレーキをかけようとした行為なのかが分からないのである。止まろうとして、エンジンを全開にしてクラッシュ・ストップ・アスターンをかけたともいえなくはないのである。

 もう一つ「よなくに」自体の動きだが、2分9秒頃から明らかになってくるのは、航跡が進行方向に向かって左に曲がってきていることである。つまり、中国漁船の進行方向に対して前方で取り舵(左)を切ったことになる。もし、中国漁船が危険を察知してクラッシュ・ストップ・アスターンをかけたのだとしたら、舵の効かない状態でぶつからざるを得ない状況になっているかもしれない。「よなくに」がなぜ取り舵を切ったのかという理由は分からないが、舵を切った事実は、航跡というはっきりした「証拠」が残ってしまっているため、否定のしようがない。となると、「よなくに」が中国漁船の前方に回りこんで回避しようがない状態に持ち込んだとも読めなくはないのである。こうなると、比較的小さな漁船とはいえ、船は急には止まれないのだから、たまったものではない。

 さらに言うと、「よなくに」が衝突直前にどのような速度で航行していたのかが読み取れないのである。
海上保安庁の船から見れば、撮影者の言うように確かに「ぶつけられた」ように見えるのかもしれないが、動いている物同士の映像は、相対的にしか見えないのである。自動車や電車などに乗っていて、相手の自動車もしくは電車を見ていて、加速しているようだが実は減速していたり、その逆だったりということは日常的に経験していることだと思う。


○映像の視点は「撮影者」の視点

 以上に見てきたように、流出した「あの映像」は動いたものの上からの視線であるし、取締官である海上保安庁の職員の目線で撮影されたものである。だから、客観的な映像とは言えない。
 もちろん、中国側の漁船が「自国の海域」で操業していたこと自体はそれなりの意図や思惑があってのことだろうし、それは「よなくに」も「自国の海域」として警備をしていたという意味では同じである。衝突したという事実は厳然としてあるものの、そこからは①~③のどのパターンであったのか、両者にどういう意図があったかどうかまでは読み取れないのである。

 映像の流出自体は、国家公務員法の守秘義務違反になるのかならないのか(私は「形式秘」にも「実質秘」にもならないと思うが)が問題とされている。それはまた機会を改めて議論したいが、より大きな問題は、せっかく明らかになった「あの映像」自体を検証する動きにはなっていないことである。中国の漁船の行為を正当化したり、非難したりするつもりはない。ただ、以上のこと触れずに、あたかも①だけの論調で中国側を批判したり、「あの映像」を流出させたことの問題ばかりを検証したりしているマスコミや世論にも大きな問題があるのではなかろうか。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2010年10月31日日曜日

デジタル難民の行く先はどこ? 地デジ化体験記(その4)

 しばらく時間がたってしまったが、地上(BS)デジタル完全移行についてのちぐはぐぶりなところをもう少し書き留めておきたい。

○複雑すぎるデジタル難視聴対策の手続

 「地デジ難視対策衛星放送対象リスト(ホワイトリスト)」の対象地区になったことは第1回(2010年4月30日)、第2回(5月31日)で書き記したが、すぐに手続をしようとして、デジサポ⇒DPAに連絡して、申し込み用紙の郵送を希望したところ、「まずは市役所から地区を通して告知するのでそれを待ってほしい」(地区によって告知方法は違うらしいが)ということであったので、待っていたが約一か月たっても来ないので、痺れを切らして再度問い合わせをしたら、「すぐに送ります」という(だったら、最初から送ってもらいたいものだが!!)。

 また、申請も非常にわずらわしく、写真つきの住基ネットカードのコピーならば単独での提出が可能なものの、住民票や健康保険証、パスポート等は単独での証明ができず、免許書等の写真つきのものを併せて提出しなければならないという非常に厄介な申請になっている。
 それだけでなく、その書類がDPAに届いた後、電話による本人確認があり、その後、申請地に届いた確認のはがきを送り返さないと使用ができないというのだ(この時点までに、DPAは視聴者を犯罪者扱いしているのかと怒り心頭になっていた)。

 その一方で、そこまでしつこく確認を求めていながら、開通通知は全くなく、いつまでたっても映らない。そのため、問い合わせをしてみて、その方法を実施してみると映らない。もう一度確認の電話をすると、(向こうの決めた)期限内にチューナーでの受信がなされなかったので、暗号鍵解除の信号を止めたというのだ。DPAの言い分によれば、そこら辺は、「申請時の用紙に書いてあります」という。だが、申請書にはおおよそのスケジュールしか示されていないのであり、いつ開通したのかも視聴者は分からない。そんな不十分な説明で良いと思っているのだろうか。

○なぜ3台に限られるのか?

 上記の対象地区においては、3台までのチューナー(B-CASカード)が登録できるのだが、なぜ3台までに限定されているのか。DPAの説明によれば、総務省との協議等において、保有台数等を勘案して3台に決めたというが、ここには録画機の台数を勘定に入れていない節がある。そうなると、テレビ2台、録画機1台という勘定なのか。それ以上を保有している世帯は、不便をがまんしろということなのか。

 DPAの担当者は、「録画機を通して視聴してください」ということを説明していたが、録画機は主にチューナーとして使う目的であるのではなく、録画をするためのものである。それが副次的にチューナーとして使えるだけのことであり、シングルチューナーのデッキの場合には、視聴時間帯と同時間帯に放送されるいわゆる「裏番組」の録画ができないことになってしまい、録画機の本来の意味を半減させてしまう。こうしたちぐはぐぶりは、国とDPAの制度・政策設計の乏しさに根本原因がある。

 総務省やDPAはデジタル放送普及においてどうも録画機の存在を軽視しているとしか思えない。たとえば、DPAでは、デジタル受信機の普及状況を示すものとしてNHK独自の推定値としての普及状況(速報値)をウェブサイトに随時掲載している。2010年9月末現在で、地上デジタル放送(累計)で8814万台(「PDP・液晶テレビ」約5566万台、「ブラウン管テレビ」約72万台、「デジタルチューナー(チューナー内臓録画機も含む)」約1986万台、「ケーブルテレビ用STB」の小計約8569万台に「地上デジタルチューナー内蔵PC、JEITA発表値8月末現在)約245万台をあわせて」)としているが、これは各方面から指摘のあるように、ビデオに搭載されたチューナーをカウントしているのではないかという可能性がある。仮にその指摘が間違っているのだとして、それを別途集計しているならば、HDDレコーダーなどの録画機の普及台数なども別途公表すべきであるという別の問題も生じる(つまり、アナログHDD録画機などもいずれ不要になるのだから・・・)。
逆に言えば、仮に、DPAがウェブサイトに掲載しているNHKの数値が、テレビ単体の集計値だとするならば、なぜ難視聴対策地区では、録画機を含めて3台に限っているのか。

 一足先に2010年7月24日に完全デジタル化を実施した石川県珠洲市では、使用している受信機の台数により最大4台までのチューナーが貸与された。4台でも十分とはいえないが、一方で4台用意されているにもかかわらず、なぜ、デジタル難視聴世帯は3台に限られるのであろうか。むしろ、難視聴地区は買い替えの余裕があっても物理的に映らないのである。せっかく、買い替えをしても映らないテレビ・録画機になってしまうだけである(こういう救済はそもそも必要ないのであろうか、あるいは家族そろってお茶の間で視聴してくださいということを推奨しているのであろうか)。

 仮に受信している台数によって衛星使用料を衛星会社に支払っているのだとすれば、台数を限定することの推測もつくが、もしそうでなければ、衛星電波の照射を受けているだけのチューナーの台数を制限する理屈が分からない。

○国と視聴者のチキンレース

 2011年7月24日まであと266日(10月31日現在)。新聞紙面でもカウントダウンが行われているが、本当にとまるのか懐疑的にみる視聴者もいなくはない。また、集合住宅等ではその費用負担をめぐって折り合いがつかず、南関東地区の設置されているアンテナを目視してみても、依然としてVHFと思しきアンテナだらけである。アナログテレビでは、すでにレターボックス画面で黒枠の中にデジタルへの移行を呼びかけるメッセージで画面が「汚されている」が、現実の問題として、来年の7月にはアンテナ工事が間に合わず、デジタルテレビを見ることのできない「デジタル難民」が出てしまうことになる。総務省側は、7月24日が譲れない線としているものの、アンテナ工事殺到による限界についてはどうしようもなく、ようやく緊急対策として地デジ難視対策衛星放送対象の再送信を活用するという(『読売新聞』2010年10月28日付)政策を打ち出した。ただ、これもBS受信機・アンテナを持っていない世帯や、ビル陰などでBSが受信できない場所では、根本的な解決にはならない。

 こんなことをするよりも、アナログ放送のサイマル送信に補助を出して、2年ぐらい延期してはどうだろうか。アナログ送信設備は機材がすでに生産されていないため綱渡りになる問題はあるものの、そうすれば、関東地区でも「スカイツリー」の建設が間に合うし、北海道や山岳地区での中継アンテナの整備も間に合うではないのか。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制