2009年7月31日金曜日

洋画、邦画、どちらを見る?~洋画不振におけるインサイダー的考察~(2)

 前回からずいぶん間があいてしまったが、その間の状況変化も加味しつつ、懲りずに「洋画不振」について考えてみたいと思う。

戦いを終えて「カンヌ熱」も冷めると、自分たちの作品選択がはたして正しかったのか、適正な値段で購入ができたのか、次第に疑問と不安が頭をもたげてくる。これは、あまり知られていないようだが、洋画の購入は「先物買い」が主流である。(「あった」と過去形にするのが正しいのかもしれない。)つまり、作品の撮影に入る前、脚本しかできていない段階で、監督やキャストといったその時点で決定している断片的な情報を手がかりに、「買う・買わない」を決めるのである。これは、買い付け作業自体が競争であり、完成まで待っていては他社にとられてしまうからだ。

そして、買い付けてからその作品が実際に日本で劇場公開されるまでに1年から2年。その間にトレンドや社会情勢が大きく変化してしまう、ということもしばしばだ。例えば3年前の韓流ブーム。日本でも特に人気のあるスターを起用した作品には当然ながら人気が集中した。複数の配給会社がそろばんをはじいてバラ色の試算を出し、最終的に一番高い値を付けた会社が作品を競り落とした。しかし、その作品の劇場公開時にはブームは去っており収支は真っ赤、という例が、特にブームの後半には多く見られた。購入から実際に結果がでるまでのこの時間差もまた「洋画不振」につながる一つの要因といえるのではないか。収益予測が難しくリスクが大きい。思い入れたっぷりで購入したものの、仕上がりが期待はずれなんてことも珍しくない。逆も然り。不安を抱きつつ購入したが、期待以上の出来栄えに胸が高鳴ることも。これではまるでギャンブルではないか。

幸か不幸か、昨今の「洋画不振」と不況があいまって、この「先物買い」の体質が是正されつつある。怖くて誰も手が出せない、というのが正直なところではあろうが、それでもやはり、仕上がりを見て判断する、というほうがよっぽど健全に思える。加えて、買い付けの値段もかなり低く抑えられてきた。かつては、製作費の10分の1が日本の値段、と言われた。韓流ブームの際には製作費の100%、時にはそれ以上の額でディールがまとまるということもあった。それでも採算がとれると思っていたからだが、今思うと、熱に浮かされ、正常な思考を失っていただけに思える。そういう意味では、不況に苦しみながらも、買い付けという面では適正価格に戻ったという意味で、今がある意味正常なのかもしれない。

客員研究員(K) 専門:メディア論、映画産業論

2009年7月21日火曜日

「官僚たちの夏」?

 十数年前に書いた修士論文の一部で「テクノクラート」の存在を分析したことを思い出した。テクノクラートとは、テクノロジーとビューロクラートをくっつけた言葉で、つまり「技術官僚」のことをいう。別に私自身は、官僚機構を専門に研究していたわけでなく、あくまでも、インターネットに代表される通信技術の決定過程を社会学的に勉強していた。この「決定過程」という言葉は、ちょっと特殊ではあるが、世の中多くの「規格もの」がある。例えば、「線路の幅は誰が決めたの?」からはじまって、最近では「アナログ地上波(テレビ)の停波と、完全デジタル移行は誰が決めたの?」まで、技術の決定過程はさまざまだ。多くの場合、業界団体が決めたり、公共性の高いものは、「国」が決めたりする。変わったところで、インターネットの技術の根幹であるTCP/IPなんかは、誰かが決めたわけではなく、語弊を恐れず簡単に言ってしまえば「みんなできめた」技術であって、そのプロセス、つまり、技術の決定過程は、民主的な手続きといわれており、これまで多くの研究者が触れてきたのである。また、国際的に規格化しなくてはならない場合は「ISO(International Standardization Organization)」なんていう、日本人には到底発音できない機関があって、ここがイニシアチブをとって決めたりもする。後は、市場の原理が決める、デファクト・スタンダードと呼ばれる決定過程もあり、VHSとベータの攻防などは、この一例としてあまりにも有名である。まとめると、お上(おかみ)や、お上っぽいところが決めるもの、自然と決まるもの、市場がきめるもの、荒っぽく、この3つくらいに集約されるだろうか。この中で、お上が決めるもの、については、いろいろ厄介である。とくに時節柄、お上への風当たりは強い。アナログ地上波停波の話だって、そもそも国民が望んだか?みたいな話にもなりかねず、そこに場合によっては税金の一部が投入されることの是非もある。歴史を振り返れば、お上が税金を使って大きな実験をして、実用化できずに、お蔵入りした技術は山積みで、その度に、責任問題となる。しかし、である。イノベーションは、国の発展に極めて重要な役割持つ。また、イノベーションの意味には、トライ・アンド・エラーも含まれる。従って、税金を使ってエラーをするのは、悪いことではない。エラーをいっぱいしないと、前には進めないし、良いものはできない。「お上」といえども「神」ではない。どんなに優秀な官僚でも失敗くらいはする。しかし、その失敗が次に生かされているかどうかが重要で、この辺は、畑村洋太郎先生の名著に譲るとして、表題の「官僚たちの夏」である。TBSの日曜劇場で放映中だが、これは、まさに「お上」による技術決定過程の話を永遠としている。通産官僚が戦後日本の復興を技術の面からリードして成功させたと、そう語っているが、ここに出てくる官僚たちの描かれ方に、私は強い違和感を覚える。「原作以上に産業政策バンザイで驚いた」とは、池田信夫先生のブログから。まったくその通りである。しかも、政権交代ささやかれるこのタイミングのオンエアー。私なんぞは、いろいろ勘ぐりたくなる。巷では、「あれを見て、仕事のやる気が出た」なんていっている人がいたりするが、そーじゃないだろぉ、と思ったりもする。
 ここまで、だらだらと書いてきたが、今回、私が本当に書きたかったことは、こういうことじゃなくて、ある知人の一言。その知人の奥様は、旧・郵政官僚でITU(International Telecommunication Union;国際電気通信連合)に出向して、国際的なバランスの中で、日本の通信政策を検討していたという。任期は2年だったと。え?2年?前述のインターネットの技術が今の地位を獲得するまで、半世紀以上の長い年月が経過している。その間、米国のテクノクラートたちは、脈々とその意志を受け継ぎながら、今がある。それがテクノクラートによる「決定過程」というものである。しかし、である。日本のITUの出向期間はたったの2年だという。一方、イギリスについて聞くと、イギリスは20年だとか・・・。この話が本当であれば、とほほ、といわざるを得ない。日本のテクノクラートは優秀なのであろうが、環境がこんなに違っては、できるものもできない。イギリスと10倍違う考え方に、驚いた今日この頃である。

代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論