2010年9月28日火曜日

電子書籍時代の到来と出版産業の崩壊

 数ヶ月前はじめて電子書籍の類を手にした。『ウェブ進化論』でおなじみの、梅田望夫氏が『iPadがやってきたから、もう一度ウェブの話をしよう』という書籍を、産経新聞出版からiPad、iPhone向けにリリースした。私は、iPhoneユーザーなので、AppStoreから450円でこのコンテンツをダウンロードした。読んでみた感想は、なかなかどうして。意外とこの手の電子書籍(コンテンツ)に抵抗のあった私だったが、「上手に」読めた。一番意外だったのは、iPhoneの大きさだ。電子書籍には小さいな、と思っていたのであるが、このサイズは適している。というか、速く読める。右上から左下の、いわゆる「斜め読み」が容易なのだ。したがって、ひょっとすると新書を読む速度よりも速いかもしれない。しかしながら、懸念していたことは、その通りで、気になったところのページを「折ったり」、気になった行に「線を引いたり」することができない。無論、この反論に対しては、たいてい、「それはアプリの問題で、線を引けて、付箋がはれるようなアプリを作ればいいんですよ」という答えが返ってくる。しかし、である。僕が思うのは、「あ、あの本どこだっけ」からはじまって、「確かこの辺だったな」となり、「あ、見つけた見つけた」と本を見つけて、「えーと、確かこの本のこの辺だっただかなぁ」とページを「ぱらぱらめくり」そして、自分で線を引いたところを「感覚的に」見つけることが、できるかといえば、それはどんな優秀なアプリができても難しいところだろう。まぁ、電子書籍元年。そこまで求めても仕方ないかもしれない。

 以前、セカンドライフを研究しているある先生に私の講義でゲストスピーチをしていただいたとき、セカンドライフのような3Dバーチャル空間では、「あ、あのピアス、この辺に置いたんだけど・・・確か、このクローゼットのこの辺に・・・」という「検索」ができるようになる、というお話があった。これには、目から鱗だったわけだが、電子書籍も、近い将来、何らかの形で、私のもどかしさを解決してくれることと思うのである。

 さて、話しを少し変えてみる。
 私の会社の株主に出版社がいることもあって、iPadやiPhoneのようなデバイスが世の中に出てきて以降の、電子書籍の取り組みについて、深く話し込むことがある。その一端に触れたいと思う。

 http://www.scribd.com/

 というサービスが米国ではある。未上場の状態で、二桁億の資金調達に成功したことでも有名なので、ご存知の方は多いかもしれない。このサービスは、誰でも自分で書いたドキュメントをアップロードして、インターネットでシェアすることができる。場合によっては、アップロードした自分の「作品」に自分で値付けをして、売ることもできる。その場合、2:8で、8が著者に入り、2がscribdの収益となる。現在の印税を考えれば破格の待遇だ。これは、完全な、C to Cサービスであって、scribdは、有料を含めた様々は形式でドキュメントを共有するプラットフォームを提供しているのである。後は、ユーザーが勝手に、色々な目的でドキュメントをアップしていく仕組みだ。

 これを思うとき、「出版産業」の崩壊が容易く頭に浮かぶ。私は兼ねてから、出版社は「ゼネコン」と表現してきた。究極的には「ゼネコン」や「代理店」はなくても、最終的なアウトプットは完成する。出版の場合、「編集者」が「著者」を発掘し、そして著者に作品を書かせ、それを出版社が「査読」をする。出版社からGOが出るまで、出版社の社員である編集者は、著者と一体になって「本作り」にまい進する。そして、本の出版許可が出されると、「紙屋」が登場する。紙屋は、輪転機を回して、数千部や数万部といった本を印刷する。次の出番は、「トウハン」や「ニッパン」に代表される取次ぎだ。私は、なぜ、これらの機能が必要なのかいまだに理解できないわけだが、とにかく産業の中で強い影響力を維持している。それからいくつかの過程を経てやっと本屋に並ぶわけだ。

 scribdのモデルは、これらの中間的な仕事を「無意味」として、そぎ落とす。究極のプラットフォームである。日本進出の噂もある中で、すでに斜頚産業化している業界は、戦々恐々としているのである。

 日本でも、ネオジャパン社が、ライブラ(http://libura.com/)というscribdに似たサービスをβリリースしている。このプラットフォームには、大手出版社が食指を伸ばしているという噂もある中で、同社は、IDC大手のビットアイルと新会社を作ることで合意している。日本にも、C to C電子出版の風が吹く日も近そうだ。

 私にいわせれば、「取次ぎ」とか「代理店」とか「ゼネコン」は不要である。特にインターネットの世界を知れば知るほど、そういった機能は嫌われるのである。しかし、先に述べたとおり、出版社の幹部と話しをしていると、どうも一気に、C to Cモデルに移れない「哲学」が存在しているようだ。彼らによれば、出版産業の衰退は認めるものの、最低限「編集者」は必要だという。つまり前述の「査読」による「権威付け」は、出版物を売る上では、絶対に必要だという論理である。私は、彼らの哲学に触れるまで、出版社の宣伝文句や権威付けなんかよりも、amazonの読者レビューの方が100倍信用できると思っていたが、どうもそうではない世界がありそうだ。『編集者という仕事』という本がこの時期に売れているが、ここでは、プロフェッショナルの編集者がいかに著者と一体となって、すばらしいものを世の中にアウトプットしていくかが書かれている。「編集者」のプロフェッショナリズムはリスペクトに値する。

 であるならば、プロフェッショナルたる編集者は、ゼネコンたる出版社に居るべきではない。電子出版の流れは、出版物そのものを電子化するだけではなく、出版産業をドラスティックに変革させている。変革というよりも、意図せず潰しにかかっているといっても過言ではない。先述の「scribd」にせよ「ライブラ」にせよ、その中間マージンを取る産業構造をゼロベースで考え直し、いらないものを極限までそぎ落とした結果、ユーザーに指示されるサービスに育ちつつある。少なくても「scribd」は米国で市民権を得たと言っても良いだろう。であれば、その新しいプラットフォームと、「編集者」や「査読」のような、そういった出版の歴史の中で培われたノウハウを融合させ、異常にコストのかかる産業構造をぶっ壊せば良いのである。つまり、こういった新しいプラットフォームを使えば、多くの著者が発掘され、優秀な編集者はフリーランスでこれらの著者と関わり、できるだけ安価に世の中にコンテンツをアウトプットする。その際、中間マージンを抜く輩は居ないわけだから、一生懸命、電子書籍を書いた著者と、それをプロフェッショナルとして支えた編集者に十分な利益が還元される、そういう世界である。

 これは、夢ではない。もうそこまで来ている。
 事実、大手出版社は軒並み大赤字らしい(上場していないので、財務諸表を確認したわけではないが)。そりゃ、そうである。そこへ来て、スマートフォンやタブレットコンピュータが続々と生産され、米国のamazonでは、キンドルベースの電子書籍のDL数が、紙の本の販売部数を越えている事実もある。

 出版、放送、新聞といった、既得権益にしがみついてきて、大産業化し、身動きの取れなくなった「ゼネコン」には、もはや終焉が近付いているといってもよかろう。なにせ、その業界に身をおく幹部自信が、身を持って感じているのだから。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論