2010年8月2日月曜日

言葉は電子帝国の論理に抹殺されるのか?

電子デバイスから消される言語

 iPadが5月28日、日本でも発売となり、大きな話題となっている。「電子書籍元年」と呼んで、販売減に悩んでいる出版界にとっては起爆剤となる可能性があるため、さまざまなプロジェクトが進められている。

 発売前日には、アップルストアや取扱量販店の前などで行列している姿が報道されていたが、ドラゴンクエストやWindows95の発売時の再来かと思えたが、沈黙の行列ではなく、Twitterでリアル中継されていた点では、時代の流れを感じた。

 私もiPadに興味を持っていて買おうとしていたが、しばらく断念している。なぜかというと、二つの理由がある。

 一つは初期ロットの不安定さを回避するということ、もう一つは、これが最大の理由だが、キーボード入力が韓国語に対応していないからである(筆者は少々韓国語を使うことがあるので・・・)。

 現在のところ、iPhoneは、英・仏・独・中・蘭・伊・西・葡・丁・瑞・芬・諾・韓・日・露・波・土・ウクライナ(ああ~、漢字がない、、、)、アラビア・タイ・チェコ・ギリシア・ヘブライ・インドネシア・マレーシア・ルーマニア・スロバキア、クロアチア語の計28言語(国別を除く)に対応している。多言語キーボードのサポートについては、セルビア語まで加えられている。

 ところが、iPadでは、メニュー言語で、英仏独日蘭伊西中露の9か国語に対応しているのみで、しかも中国語は中国本土で使われる簡体字だけである。また、多言語キーボードや辞書のサポートについては、それにフラマン語(ベルギーで使われるオランダ語)が加わっているくらいである。

 聞くところによると、iPadの韓国発売は来年だということであり、その時点でアップデートされて入力・表示が可能になるかもしれない。ただ、初期ロットを避けるという意味もあり、購入までには時期尚早かなと思っているところである。

 そういう考えを持っていたところ、もう一つ気になるニュースを聞いた。ASUSTek computerも6月1日、台北で開かれたComputex2010でタブレットPC「eee Tablet」を発表した。しかしこれも日本での発売は未定のため、当面のところ、英語、ドイツ語、中国語のみに対応させるとしている。

○世界地図から続々消える言語

 世界には現在、およそ6500の言語があると言われているが、2001年からの30年で3000の言語が消え、21世紀中には90%が消滅して300程度の言語しか残らないのだろうと、文化人類学者の福井勝義氏は警告している(東京新聞2001年2月4日付朝刊大図解「世界の言語地図」)。その原因の多くは、19世紀からの国民国家による中央集権的な教育制度とマスメディアの普及によって、言語の統一化が行われたことであり、地域の独自性や民族性が失われつつある。文字を持たない言語は、口承口伝で伝えていくしかないが、継承者が消えつつある。また、山一つ隔てれば別の言語というのは、各国の言葉にとって何も珍しいことではない。それは今日、世界的な共通言語として利用されつつある英語も例外でなく、ノルマンコンクェスト以前は古来ケルト語系統の言語を使っていたのだし、帝国主義以前は、国内における英語滅亡の危機すらあったのだ(世界中に普及して言ったのは帝国主義所以だが・・・)。

 2010年4月9日に亡くなった井上ひさしは、明治時代の言語政策をベースにした戯曲『國語元年』を書いており、1985年にはNHKによってドラマ化されている。この物語では、幕藩体制下で250の国に分かれていた日本を舞台に、富国強兵のために国語教育で言語を統一することを命ぜられた文部省の下級官吏・南郷清之輔(長州出身)が主人公だ。奥方と舅は薩摩出身であり、息子とともに4人で暮らしているが、この邸宅には、江戸山手、下町、山形、遠野出身の使用人に加え、言葉の相談役として名古屋の書生、公家が加わり、そこに会津弁をしゃべる元士族の泥棒が飛び込んでくるという舞台で、その中でお国言葉を無理に変えようとするところに問題が続出して、七転八倒する様子が面白い。

 日本はその後、この戯曲がベースとしたシナリオどおりではないが、近代化の過程の中で初等教育を整備して言語統一を行った。その中で、各地方の独自性や、アイヌ、琉球の言葉などの多様性が失われていくきっかけにもなっている。また、その後わずか30年後には、台湾や朝鮮半島、太平洋の諸島などで、日本語への言語同化政策を行っていくことになるのである。

 アルフォンス・ドーデは新聞小説「最後の授業」の中で、普仏戦争(1870~71年)終結のフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ地方の割譲により、母国語を失った人々の悲しみをフランツという少年を通じて描き出している。フランス語嫌いであった少年が、いやいやながらに登校すると、フランス語の最後の授業日であり、翌日からはドイツ語による教育が行われることを知った。厳しかったアメル先生もやさしく迎えてくれてフランス語の授業が始まり、「フランス語は世界中で一番美しい、ある民族が奴隷になっても国語を持っている限りは牢獄の中でカギを持っているようなものだ」と言い、授業の最後に「フランス万歳」と言って終わるというストーリーである。このストーリーは1927年から1986年まで日本の国語教科書に頻繁に使われていた教材である(府川源一郎『消えた「最後の授業」』大修館書店)。

 問題は、戦前は、言葉に対する愛着や愛国心を教える小中学校の国語教材として使われていたことである。つまり、自国民に言葉を失うことの悲しみを通じて言葉の大切さを教えながら、日本が他国に対してやっていたことのパラドックスが存在するのである。戦後は、朝鮮戦争を景気に復古的な動きや国語愛として復活したが、1986年には消えた(小学生当時、教わった記憶がある)。

○マスメディアが消した方言

 言語の多様性は何も国家だけが押しつぶすのではなくて、マスメディアもその一因を担う。つまり、音声メディアでもある映画、放送(ラジオやテレビ)などは、音声を記録したり、母国語によるコミュニケーションを行ったりするために、アジアやアフリカではラジオ放送が重用されるが、その一方で、その普及により方言を押しつぶしてしまう恐れもある。山一つ越えると、意味や言い方が異なるという時代ではなくなってきたが、逆に言えば、言語の多様性は押しつぶされてくる恐れがある。装置産業であるマスメディアを利用するということは、ある意味である程度の規模を持たなければならない。そのために、少数言語や方言などには対応しきれないかもしれない。

 パソコンやネットの普及は肌理の細かいところへの言語対応ができるはずである。ところが、冒頭に挙げたように普及すると見込まれている電子デバイスが画一化されてくると、ますます言語の滅亡に拍車がかかるのではないかとすら思われてならない。それは、普及できなかった電子デバイスの規格が葬り去られるだけでなく、そこに集約された言語の背後にある多数の採用されなかった言語も抹殺されることを意味するのではなかろうか。日本語も例外ではない。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制