2009年5月30日土曜日

洋画、邦画、どちらを見る?~洋画不振におけるインサイダー的考察~(1)

 5月24日、第62回カンヌ映画祭が幕を閉じた。最高賞にあたるパルムドールはミヒャエル・ハネケ監督の「白いリボン(Das Weisse Band)」。第一次世界大戦直前、ドイツ北部の村がファシズムらしきものの影響を受けていく様子を白黒で描いた作品だという。 筆者はこの作品を見ていないのだが、ストーリーなどから推測するに、昨年の「クラス(Class)」に引き続いて地味めな作品か。パルムドール受賞が(もっと言えばアカデミー賞でも受賞しない限り)、洋画の商業的成功にはつながらないのが昨今の日本映画界事情。過去に何度かバイヤーとしてカンヌ映画祭に参加したことのある筆者としては、この「白いリボン」が日本でどのように展開されるのか注目していきたい。業界の片隅で生きる者として昨今の「洋画不振」には忸怩たる思いがあり、何とか挽回のヒントをつかめないかと日々煩悶している。(念のため、ここで言う洋画とは日本映画以外の外国作品である。) 

2006年は日本の映画界にとってまさに大きな変化の年であった。21年ぶりに邦画の興行収入が洋画を抜いたのだ。そしてそれ以降「邦高洋低」状況は続いている。ハリウッド大作から単館系インディペンデント作品に至るまで洋画は青色吐息。「大ヒット」と謳っても、かつてのような勢いはない。翻って邦画はといえば、今やトレンドの最先端。筆者の青春時代(そんなに遠い昔ではない。1990年代!「青春」という言葉自体が死語か?)、若者の感覚で言うと邦画は「ダサ」く、「男はつらいよ」に代表されるような年配のコア・ファンのものであったと記憶している。

 前置きが長くなってしまったが、この機に、カンヌでの体験を手がかりに「洋画不振」といわれる要因について筆者なりに考えてみたいと思う。(長くなってしまいそうなので、何回かに分けたい。)今回はまず、バイヤーにとってカンヌがどのような場所なのかを説明しておこう。

カンヌ映画祭は毎年5月の中旬に開催される。5月のコートダジュールの風は朝晩はまだ肌寒いが、日中は強い日差しが照りつける。しかし、空気は乾燥していて非常に過ごしやすい。ベルリンやヴェネチアとあわせて世界三大映画祭と呼ばれる映画のお祭りの中でも、カンヌは別格。12日間の開催期間中、「カンヌ熱」とでもいうべき不思議な熱狂が、普段は静かな南仏の街を支配する。ところが、この「カンヌ熱」こそが要注意!

「カンヌ熱」に浮かされるのは何もレッドカーペットを歩くスター目当ての観光客や、世界各国の映画の上映を心待ちにしている映画ファンだけではない。映画祭に併設される映画業界関係者の見本市であるマルシェ(マーケット)では、売り手(セラー)、買い手(バイヤー)ともに、この年間最大のビジネス・チャンスにある種の高揚感をもって挑む。パレと呼ばれる見本市会場(東京ビッグエッグをご想像頂きたい)だけではなく、クロアゼット通りと呼ばれる海岸沿いのメインストリートに立ち並ぶ高級ホテルやアパートメントもそのほとんどがセラーや業界関係者の臨時オフィスとなり、人が慌ただしく出入りする。朝から夕方までびっちり予定の詰まったスケジュール帳を小脇に抱え、各国セラーとのミーティングをこなすため、バイヤーはこのクロアゼット通りを文字通り端から端まで、ミーティングからミーティングへとめまぐるしく移動するのである。その合間に試写をし、夜は接待ディナー、パーティ、また試写(夜中まで続くことも)、その合間に脚本を読まなければならないし、購入作品を決める打ち合わせもある。まさに「怒涛」という形容がぴったり。購入する作品が決まれば、その作品を販売しているセラーとの交渉にあたる。日本で人気のあるキャスト、日本人受けすると思われる作品には人気が集まり、数社で競合になることもしばしば。この場合、値段は釣りあがり、胃はキリキリ。カンヌとはバイヤーにとって、まさに情報と体力を要する消耗戦であり、華やかな舞台の裏で実は熾烈な攻防が繰り広げられているのである。(つづく)

客員研究員(K) 専門:メディア論、映画産業論

2009年5月12日火曜日

第一回「CDショップ大賞」決定!

 5月2本目は、時事ネタ。

 本日「CDショップ大賞(http://www.cdshop-kumiai.jp/)」が発表になり、渋谷のHMVでイベントと授賞式が執り行われた。いままでの、例えば、レコード大賞などとは異なり、投票権を持っている審査員は、一般のCDショップ「店員」の皆さんである。あくまでも、生活者目線。

 そういえば、これと似た賞を思い出す。

 そう、もう知っている方も多いと思うが

 「本屋大賞(http://www.hontai.or.jp/)」だ。

 一般の書店員さんたちが立上げ審査員を務めたこの賞。大賞や、入賞作品が、ミリオンセラーとなり、世に出てきた。私としては、当時すごいインパクトを受けたことを覚えている。NPO法人化もしており、書籍文化のボトムアップを、まさに、生活者目線で行なった賞といっても良いだろう。リリー・フランキーの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』(扶桑社)や東野圭吾の『容疑者Xの献身』(文藝春秋)、小川葉子『博士の愛した数式』(新潮社)などは、本としてミリオンセラーになるばかりでなく、映画化もされているので、聞きなれた作品かもしれない。

 さて、今日の「CDショップ大賞」は、このCD版といってもいい。詳細は、ホームページをご覧いただきたいが、大賞に、「シフォン主義」相対性理論、準大賞に「THIS IS MUSIC」大橋トリオ、「GAME」Perfume、がそれぞれ選ばれている。

 私はかねてから色々なところで、半ば確信犯的に、既存のメディア産業を旧メディアと呼び、インターネットに代表されるメディアを新メディアと呼び、これを、二項対立モデルのように書いてきた。結果、いつも、新メディアが勝る、というのが、大方の文脈であった。

 例えば、楽天やライブドアのテレビ局の買収騒ぎにおいても、なぜか、この新旧両メディア産業は、すぐにけんか腰になる。というか、旧メディア産業が新メディア産業を受け入れないのである。特に、ライブドアがフジテレビ(系列)を買収にかかったとき、フジテレビのトップが、嫌悪感や怒りをあらわにしたが、私からすれば、「じゃ、なんで上場したのよ。買収されるのが『怖い』なら、上場しなきゃいいじゃないよ」と言いたくなって、いろいろな場で、そう言ってきた。

 ということで、前置きが長くなったが、どうも、この新旧両メディアの接触は刺激的なようである。あの買収騒動の際、ライブドア元社長の堀江氏は、ジャーナリストの江川紹子氏のインタビューで「(インターネットは)、新聞やテレビを殺していくんです」と、これまた刺激的な発言をしている。これも確信犯的な発言だとは思うが、それにしても、刺激的である。

 さて、ここで本題。結論から言えば、この新旧両メディア産業は対立する必要なんてないのである。ましてや、インターネット産業は既存のメディア産業を「殺そう」なんて、これっぽっちも思っていない。以前、このブログで、IPTV(もっと言えば、インターネットテレビ)についても触れたが、その際も、インターネット的なものと、テレビ的なものの「対立」が、どうしても生じてしまうことに触れた。この議論には、一番大切にされるべき、生活者が不在で、既得権益者がその既得権を守ることに必死になっているだけのように見える。生活者にとって、あるいはテレビの場合は、視聴者にとって、何が一番大切なのか、を考えることが大切であろう。生活者にとって、メディア接触の「デバイス」は何であろうと関係ない。小説を本で読もうが、携帯で読もうが、どっちだっていいわけである。それは、産業側がおしつけるものではなく、提案するものである。互いが互いを補完しあっていけば良いのである。現に、在京キー局が株主に名を連ねるインターネットベンチャーは数多く存在する。そうやっていけばいいと思う。

 そして、さらに大切なことは、インターネット的な人たちは、「旧態依然とした体質」が大嫌いである。無論、インターネットの歴史をひっくり返せば、元は反骨精神バリバリのハッカー文化にそのルーツを見出すことができるわけで、ビューロクラティックなことは大嫌いなのである。

 ここまでの話を踏まえて、話を元に戻すが、昔からあった、「レコ大(レコード大賞)」や、文学の世界でいう「芥川賞」や「直木賞」は、審査をする人たちがプロだった。そして、密室での審査だった。インターネット的な人たちは、こういうのが大嫌いなのである。

 「もっと生活者目線でやらなきゃだめだ!」

 インターネット的な人たち、言い換えれば、新しいジェネレーションの人たちは、きっとそう思ったのだろう。そんな中で、「本屋大賞」や「CDショップ大賞」といった企画が出てきて、結果、出版、CD、それぞれ産業としては右肩下がりになってきているが、それぞれのメディア業界のボトムアップをすることに成功した(少なくとも前者は)のには、非常に大きな意味があるし、「旧態依然体質」への、おおきなアンチテーゼになったのではないだろうか。 梅田望夫氏的に言えば「WEB2.0」的なるものである。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2009年5月3日日曜日

民放連に加盟しないテレビ局

 2009年5月1日、色んな意味で「とんでもない」放送局が開局した。その名も「BeeTV」。エイベックスとドコモが合弁で作った、「エイベックス通信放送」という会社が母体である。

http://japan.internet.com/finanews/20090330/3.html

 簡単に言うと、「携帯だけで見られる『放送』」を行う会社。つい一つ前の投稿で、「『通信』と『通信』の融合」という、ちょっと皮肉った文章を書いたので、この件に、触れずにはいられない。

 この会社、資本金が35億。そんでもって、資本準備金も35億。エイベックスが70%を出資し、残りがドコモ。

http://www.avex.co.jp/j_site/ir_news/pdf/080930_1.pdf

 どでかい話である。

 そもそも、エイベックスの松浦社長は、そんなことぜんぜん意識していないと思うが、この社名、私の興味ど真ん中である。曰く、「エイベックス通信放送」。「通信放送」って。要は、「通信と放送の融合」なんていって、既得権益者達がまじめに「自分達の既得権益を守るべく」議論してるのを尻目に、もうやってますよって。時代は、もうこうだと。
 iPhoneにSkypeが乗った話をしたが、時代の潮流を真に捉えているという意味では、それに似ている。なにせ、携帯(ドコモに限るが)のパケット通信(≒IP通信)で、放送的、あるいは、テレビ的なコンテンツが見られる。無論、オンデマンド。地デジ化で、IP再送信がどうだとか、こうだとか、そんな議論、とっくに通り過ぎて、もうやっちゃってる。世のデジタルネイティブ達は、とっくにテレビから携帯にその時間の使い方がシフトしてきている中で、しごく、真っ当なビジネスであり、挑戦であると思う。
 無論、エイベックスはエンターテイメント企業。コンテンツのほとんどはエンターテイメントだろう。従って、既存の放送局が持つ公共性だとか、なんだとかの議論に巻き込まれずにすむ。既成概念にとらわれない、そんな専門チャンネルだ。
 「通信」インフラ会社のドコモが「テレビ的なモノ」に参戦してくるのは予期していたが、その相手が、エイベックスになるとは。東証1部に上場している企業の中で、もっとも流行に敏感な企業、かもしれないエイベックスが、こういった事業に乗り出すことは、情報産業の視点からも見逃せない。
 無論この放送局、民放連には加盟していない。民放連は、このことにどんな思いだろうか。自分達が「置いていかれている」ことに気づいているのだろうか。今度、民放連の人に聞いてみよう。たぶん、何とも思っていない、何も感じていない、と思う。それが大問題なのに・・・。
 一方の「マックス松浦」。さすがである。このご時世に、50億のリスクマネー。賞賛に値する。CPとIP通信技術のタッグは、今後も多く出てくると思う。こういった世の中の流れが、既存の放送局の考え方に風穴をあけてくれることを、あるいは、危機意識を持たせてくれることを、強く期待せずにはいられない。
 GWということもあり、ちょっと頭がボケている。備忘録的に言いたいことだけ言わせていただいたが、あしからず。

代表主任研究員(T) 専門:情報産業論・メディア技術論