2009年4月20日月曜日

「『通信』と『通信』の融合」

 情報通信メディアの環境についてブログを書こう、と言い出しておきながら、ド頭からちょっと本題からずれた話を書いてきてしまっているので、この辺で多少、方向修正をしておこう。まぁ、ずれた話も、それはそれで有意義なのだが・・・。
「通信と放送の融合」が議論されはじめて、もう随分長い時間が経過している。この議論も、パケット通信の技術的台頭と安定や、地デジ化を控えたテレビの文脈の中で蛇行しながらも前に進みつつある。例えば、地デジのIP再送信の議論や、NTTのNGNへの巨額投資、そして、動画の圧縮技術の進歩などなど。そもそも、通信と放送を分別して考える必要が技術的側面からは薄れつつある。色濃く分離したいのは、霞ヶ関や既得権益者が残されるのみとなったのではないだろうか。
 そんな中、おもしろい記事を発見した。おなじみ、Apple社のiPhoneのアプリケーションにSkypeが乗ったという(http://plusd.itmedia.co.jp/mobile/articles/0903/31/news025.html)。正確に言えば、SkypeがiPhone向けのSkypeアプリケーションを作ったのだ。さて、これは実に面白い。ご存知Skypeは、VoIPの草分け的存在だ。私も海外出張の際には、PCに入れたSkypeを重宝している。なにせ、無料で世界中と話やチャットができ、必要あらば、世界中の携帯電話や固定電話に、超格安で電話がかけられる。以前、欧州を旅行中にギリシャで近い知人の訃報を受け、ホテルのネットに繋いだノートパソコンから、関係者と何時間にも渡りSkypeで電話をしたが、そのコストはたった数百円だった。さて、話を元に戻そう。そのSkypeがiPhoneに乗ったのである。特段驚くようなことではないかもしれないが、簡単に言うと、「電話のサービスが電話機に付いた」のである。誠に笑える。実はこれ、私は意外と面白い歴史的背景を持っていると考える。昔、大学院時代に私の師匠の一人が、「インターネットの世界では『PC屋と電話屋』が対立している」と言ったことがある。PC屋とは、例えばハッカーに代表されるように、インターネット文化を作り上げてきたようなプログラマー集団や企業であり、一方の電話屋というのは、日本で言えば、NTTやそのグループ、米国で言えば、at&t及びベビーベルといったところだろう。「電話屋」にしてみれば、いままで異業種だったはずの「PC屋」は、インターネットの登場で急にライバルになってしまった。SkypeなどVoIPサービスの登場はインターネットの歴史において、比較的最近の出来事だが、例えば、その昔、国際電話をすれば、数千円から一万円オーバー稼いでいた電話屋が、インターネットの出現で(もっと具体的にはSMTPの出現により)メールをすれば無料で済む、という話になってしまった。無論慌てたのは、電話屋の方であった。この時よく聞いた議論では、技術的に電話は発信者と受話者を直接「線」で繋いでいるから「ギャランティー型」の通信であって、そこに価値があると。だから、電話はすごい、という論調である。一方のインターネット側はというと、パケット通信であるため、「ベストエフォート型」の通信なので、その信頼性に問題があると。しかし、どうであろう。結果として、今や冒頭で述べたように、地デジのIP再送信の事実でも見られる通り、ハイクオリティの動画が確実に受信者に届けられる時代になったのである。そうなってくると、ユーザーからすれば、固定電話とVoIPの技術的違いなんてどうでも良くなる。ギリシャからSkypeで長電話しようと、そのクオリティはまったく固定電話と一緒である。いわんや、同時にチャットや、ウェブカメラを付ければ動画も送れる。面白いことに、日本の役人は、なんとかこのVoIPを既存の固定電話や携帯電話のサービスと切り離したいらしく、「IP電話」というサービスはISPが行うサービスであって、050-の番号が付与されることで、他と区別されるようである。紛らわしくも、「インターネット電話」なるサービスも別に区別されていて、こっちは、固定電話と同じく、03-や06-の番号の付与が、「暗」に認められているようである。ちなみに、米国の場合、固定電話、携帯電話、VoIPで、番号による区別は無い。
 このように、PC屋と電話屋は、いずれも、日本的に言えば「通信」の枠組みにいながら、いわば「政治的」に区別されてきた経緯がある。私が見るに、どうも、既得権益者たちは、インターネットの勢いが怖いように見受けられる。
 さてiPhone版Skypeだが、そんなSkypeがiPhoneに乗ってしまった。つまり、Wi-Fi下にある場合、iPhoneから無料で電話をかけることができるわけである。まぁ、ギリギリ面子を保った部分は、Wi-Fi下でなければ、Skypeで無料電話をかけようとも、キャリア(iPhone側)は、パケット料で商売ができる、ところであろうか。
 そんなわけで、相変わらず、読者には、回りくどくて申し訳ないが、「通信と放送の融合」の時代には、「通信と通信の融合」も起こってきているという現実があることを、このニュースにより実感させられた次第である。もう少し本質的なことをいうと、新しいイノベーションと既得権とが、にらみ合っていた時代が、そろそろ過ぎ去ろうとしており、文字通り「融合」しようと、歩調をあわせてきている時代が到来したのかなぁ、とも思う。しかし、一方で、既得権は強く、自分の負けを認めない。まぁ、既得権益者とはそういうものである。しかし、遅かれ早かれ、「融合」せざるを得ない時代が来るであろう。なぜなら、主役は、技術そのものや、既得権益者そのものではなく、それらのサービスを使う我々市民、一人一人なのだから。

代表主任研究員(T) 専門:情報産業論・メディア技術論

2009年4月8日水曜日

マスメディア制作の「映画」だというのに・・・

最近、テレビ局や新聞社などのマスメディアが映画制作にかかわることが多くなり、こうした作品が非常に興行収入もよいという。テレビ草創期には映画会社がいわゆる「五社協定」(一時期六社)を結び、客を奪われまいと、自社専属の映画俳優をテレビに出演させないことがあったが、その時代からすると、隔世の感がある。
だが、そうしたマスメディア制作の映画を観ていて違和感を覚えることがある。各々よくできている映画なのだが、どうしても腑に落ちないので、いくつか指摘しておきたい。ただし、ストーリーを言ってしまうと、観ていない人の楽しみを奪うので、無粋なことをしないように問題提起していきたい。
一本目は、「容疑者Xの献身」(西谷弘監督作品、2008年、フジテレビジョン、アミューズ、S・D・P、FNS27社:http://yougisha-x.com/ )では、川沿いの公園で死体が発見される。一瞬のことなので見間違いかもしれないが、この時、上空を飛ぶ取材用と思しきヘリコプターの映像を見て「おやっ」と思った。それというのも、4機ほどのヘリコプター同士が向かい合ってホバリングしていたのである。これは通常はありえないし、実写とも思えない(おそらくCGだろうが・・)。なぜかというと、回転翼機(つまりヘリコプター)で同一対象を航空取材する場合には「右旋回」が原則だからだ。向かい合ったヘリコプターでは空中衝突の恐れがあり、これを回避するルールが設けられている。具体的には、取材ヘリコプターの騒音問題と取材機の事故を契機に作られた日本新聞協会編集委員会の「航空取材に関する方針」(1965年6月9日制定)、「航空取材要領」(1965年7月14日制定、1985年1月10日一部修正、1997年3月13日改定)に基づくのだが、多少高度が異なろうと、取材対象に向かって同一方向で旋回していなければならない。つまり、これを知っていればこういう描写にはならなかったはずである。
次の二本は同じ問題意識として取り上げたい。
一つは「誰も守ってくれない」(君塚良一監督作品、2009年、フジテレビジョン、日本映画衛星放送、東宝:http://www.dare-mamo.jp )は、突然容疑者の家族になってしまった女子中学生が主人公の映画だ。
もう一つ、「ジェネラル・ルージュの凱旋」(中村義洋監督作品、映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」製作委員会、http://general-rouge.jp/)は、「チームバチスタの栄光」のシリーズ二本目だが、殺人と収賄容疑の事件を描いており、今の救急医療が置かれている状況を見事に描きながら良質のサスペンスになっている。
両作品とも非常にメッセージ性がある良い作品なのだが、やはり腑に落ちない。なぜかというと、作品中で事件・事故を取材する取材陣が両方とも「迷惑な存在」「やっかいもの」として描かれているからだ。「誰も」はフジテレビが、そして「ジェネラル」は製作委員会方式を取っているので、一社が直接製作担当をしているわけではないが、TBS、毎日放送、中部日本放送、RKB毎日放送、北海道放送、朝日新聞社が携わっている。
つまり、何が言いたいかというと、報道機関を自負するマスメディア企業が並んでいるにもかかわらず、両作品とも自分たちの仲間の仕事に対するリスペクトが見られないのである。
たしかに、取材陣が取材対象者を囲むことによって問題となることがある。私の知っている限りだが、1988年3月に高知学芸高校の修学旅行団が中国・上海で列車事故に遭い、生徒ら28人が死亡した。この時、高知空港(現・高知龍馬空港)で、悲嘆に暮れる遺族たちにマイクやカメラを差し向けて取り囲んだ取材陣と遺族の間で大きなトラブルになったことがあった(この後、青森放送は事件・事故の遺族取材を自粛する自らのルールを作ることで先鞭をつけたが、このように明確化したのは他には見られなかった)。
その後、いわゆる「メディア規制三法」(個人情報保護法、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案)が法制化されようとしていたほぼ同時期に、いわゆる「メディア・スクラム(集団的過熱取材)」問題が議論された。日本新聞協会編集委員会が下部機関を設け、神戸連続小学生殺害事件(1997年)、和歌山カレー事件(1998年)、大阪池田小学校事件(2001年)などの事例を基に議論し、「集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解」(2001年12月6日)をまとめ、日本民間放送連盟も「集団的過熱取材問題への対応について」(2001年12月20日)をまとめた。
これにより、メディア・スクラム(集団的過熱取材)が起きた場合には、都道府県ごとにある報道責任者連絡会議の幹事社を窓口に、新聞協会・民放連加盟社間で取材の調整を図ることになる。奇しくもこの仕組みができた直後に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の「拉致被害者」らが帰国、この方法により取材が調整された。ただし、2006年に秋田県で起きた連続児童殺害事件では、この仕組みによる調整はなされたものの、実際に多数の取材陣が小さな集落に集中し、運用上の課題は多く残っている。一方で、取材・報道の自由、「知る権利」を考える時に、こうした一斉自粛が良いのかどうかはもう少し議論しなければならないであろう。また、雑誌等が蚊帳の外に置かれたまま作られた枠組みが良いのかどうかは別途議論しなければならない。
このように取材現場で混乱が起きた際に、まったくの無策ということではないのだが、二本の映画では、群がる取材陣がまさに「迷惑な存在」「やっかいもの」として描かれているのである。
事件や事故を取材・報道をするということは、社会全体でこうした問題を解決するための判断材料(情報)を集め、伝える活動である。その努力に対するリスペクトが見られないのが残念だし、取材・報道の理屈が軽視されているとしか思えないのである(一方で、蛸壺的な理屈になっているからそういう競争になってしまい、問題を引き起こしてしまうのかもしれないが・・・)。報道機関である会社の映画制作部門は、社内でどのように取材・報道部門と連携して考証していたのであろうか。社内での部門同士の軋轢があってあのような描き方になるのか、それとも自虐的にこういう現象もあるのだということを主張して描いたのか、いささか腑に落ちない。
(もっとも、「誰も」では、マスメディアよりも、ネットユーザーをもっと「迷惑な存在」「やっかいもの」として描いていたが・・・)
このように、少しの連携があれば、もう少し良い表現が期待できたかもしれないだけに残念である。ただ、映画自体は非常によくできていると思うので、三作品とも観ることをお薦めする(「誰も」は事前に放送されたドラマと併せて観た方がよりストーリーが理解しやすい)。

主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2009年4月6日月曜日

「ミサイル」「ロケット」「飛翔体」

 北朝鮮の「ミサイル」問題で、日本のメディアは多くの問題を浮き彫りにしたのではないだろうか。私自身の専門は情報産業であるが、学部・大学院とジャーナリズム論にも接していた「癖」が抜けきれなく、今回はこのことを取り上げてみたいと思う。
 メディアがこの問題を取り上げ始めた当初、どの局の報道を見ていても、北朝鮮が発射しようとしている「物体」を「ミサイル」と呼んでいた。これが私の感覚として、どうしても腑に落ちなかったのである。「NHKは違う表現をしてるだろう」と思い、チャンネルをまわしてみても、どうしたことか、民放各局の報道番組とまるっきり同じで「ミサイル」と呼んでいる。余計腑に落ちない。
 つまり北朝鮮は、形式上、この物体の先端には人工衛星をひっつけている、と主張している。同時に国際機関にも、そのように通達をしていた。一方で日本の報道機関の取材は、現地へ行って、先っぽに、ひっついているものが人工衛星か、あるいは、爆弾の類のものか、などは知る由もなく、北朝鮮が打ち上げる、ということだけで、どの局も「ミサイル」と決め付けて呼んでいたのである。
 少なくとも事実としては、「北朝鮮は人工衛星の打ち上げ」と言っている、「国際機関にもそのように通達している」のであって、私は、この時点で、報道機関は絶対的に「ロケット」と表現すべきだと思うのである。もし、本当に(これは最後までわからないのだが)先っちょに、ひっついていたのが「人工衛星」だったら、果たして、当初「ミサイル」と呼んでいたことを「陳謝」するメディアはいるのだろうか。甚だ疑問である。
 さて、いよいよ発射の時期が近づいてくると、いくつかの報道番組が「ロケット」という言葉を使いはじめた。何気なしに。さて、それでは、いままで「ミサイル」と表現していたことに対してエクスキューズをしたのだろうか。私の知る限り、それはない。ある番組が「ロケット」と言い出したと同時に、チャンネルを変えてみると、口裏を合わせたように「ロケット」と表現を改めている番組が出始めた。「ミサイル」と「ロケット」では、視聴者に与える印象は、まるっきる異なる。
 さらに、私が唖然としたのが、発射されるであろうとされていた4/4の報道で「飛翔体」という表現をしだしたことである。そもそも、「飛翔体」って何?UFOと一緒?って話である。その呼び名もおかしいが、本質的な問題は、「政府発表」がこの「飛翔体」という言葉を使ったことを受け、全局(調べたわけではないが、どのチャンネルを回してもそうだった)が、今まで「ミサイル」や「ロケット」と表現していたものを「飛翔体」と統一しはじめたのである。
 まったく、一体なんなんだ。日本のジャーナリズムは「発表ジャーナリズム」だといわれても、これでは仕方ない。もし私が発射側で、発射するものが人工衛星であったなら、日本の「ミサイル」報道を、名誉棄損で訴えるところだ。この手の物体の表現は極めて重要である。メディアの影響力が、その表現力を通じて、視聴者に与える影響は絶大である。それぞれの番組が、しっかりとした裏づけをもって、あるいは、一定の哲学をもって、こうした表現を使うべきである。少なくとも、当初、まだ、先端に引っ付いているものが、何だかわからないが、北朝鮮が人工衛星といっているうちに、「ミサイル」と報道すべきではなかった。「ロケット」は無難かもしれないが、「飛翔体」という表現が、官邸からではなく、問題初期の時点のジャーナリズム側から、出てきて欲しかった。
 なにも、北朝鮮を擁護する気など全く無い。実態はわからないが、他国からの援助で、「飛翔体」に莫大な費用をかけるなら、しっかりと自国民の救済を考えるべきであろう。従って、そういった国が打ち上げる「飛翔体」を、当初から「ミサイル」と表現されても無理はない。が、それは一般論。ジャーナリズムは、それではいけない。ジャーナリズムには、しっかりと、当初から「飛翔体」と表現してほしかった。

代表主任研究員(T) 専門:情報産業論・メディア技術論

2009年4月5日日曜日

「間違いだらけのパートナー選び」!?

30年続いた徳大寺有恒さんの著書「間違いだらけの車選び」シリーズ(草思社)をもじって、このタイトルをつけたが、この原稿では、筆者(40歳♂独身)の結婚相手紹介サイトの体験を基に、現代の結婚事情なるものを書いてみたいと思う。
現在は、晩婚化、少子高齢化の社会だが、厚生労働省の人口動態統計特殊報告の「平成18年度『婚姻に関する統計』」のうち、平均婚姻年齢をみると、1975年には平均初婚年齢が夫27.8歳、妻25.2歳であったのに対し、それから30年を経た2005年にはそれぞれ31.7歳、29.4歳となっている。また、合計特殊出生率も1.75から1.26に下がっている。1985年の男女雇用機会均等法施行を契機に、憲法が求めている法の下の平等が働く女性にもようやく保障されるようになり、実態での差別待遇はあるものの、それ以後、女性の社会進出を促すきっかけを作った。このことや女性の権利獲得運動の結果、晩婚化や少子化の一つのきっかけになったという指摘も良く見受けられるが、当然ながらそれだけとは言えない。経済構造を考える時に、社会を構成する人口が減少することは、ただちに市場規模の縮小を意味する。
だからといって「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」などと発言して顰蹙を買った柳沢伯夫厚生労働大臣(2007年1月当時)や、全日本私立幼稚園連合会主催の公開討論会(2003年)で「集団レイプする人はまだ元気があっていい、正常に近いんじゃないか」と発言した太田誠一衆議院議員(彼は自由民主党の人権問題調査会長を務めたが・・・)、「子どもを作らぬ女性を税金で見るのは変」(同年)とした森喜朗元首相のような、噴飯物のカン違い発言は困るのである。
女性の人権が確保されるということは、ひとり女性のためだけではない。女性の社会的地位が向上することによって、男性の人権の向上ということにも繋がるのである。先に述べた日本国憲法第24条では、両性の本質的な平等に基づく婚姻を国が国民に対して保障しているのであって、ここでは形式的な平等を求めているのではない。これを作り出したベアテ・シロタ・ゴードン氏は、戦前の日本女性の置かれたひどい状況をつぶさに見て、戦後GHQ民生局のスタッフとして憲法制定にかかわった際にこの規定を生み出し、戦後の女性の地位向上が図られた。しかし、現在の日本では、憲法改正を求める政治家(もちろん女性も含まれている)たちが、子ども達の福祉や少子高齢社会を改善するために、女性に法的・社会的な平等よりも、母親役をより強く求める動きがあり、この第24条の規定を後退させる動きすら出ている。
少し前段が長くなったが、晩婚化、少子高齢社会というものは、むしろ、結婚という制度をめぐる価値観の多様化ということが挙げられよう。
イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ氏は、単に性欲に基づくパートナー獲得競争から決別し、「ロマンティック・ラブ」が誕生したことを人類の特徴の一つとして捕らえている。また彼は、歴史的に男性による女性支配を強いてきた家族ではなく、両性の平等による「感情の民主制」をも唱えており、私もこの点に非常に強く賛同する(男性が女性を支配してきた歴史的経緯があるにせよ、各家庭での実質的な支配権がどちらにあるかは別だが・・・)。
ギデンズ氏の言う様に、恋愛感情を持つことによって、さまざまな悲喜劇が繰り広げられてきたし、それにまつわる小説や映画、ドラマなども数多く誕生してきた。ただ一度の人生に「運命の人」とのめぐり合いを求めるのは、人のサガであろうが、次第に「条件の人」探しになっているように思えてならない。
いわゆる伝統的な見合いでは、世話焼きな人が仲人になったり、友達が紹介したり、適齢期にある両性を引き合わせたものだが、こうした風習が次第に廃れるようになった。恋愛結婚が相対的に増えたこともあるが、地縁や血縁による人間関係が分断された現在の社会では、めぐり合いのタイミングを逸することも多く考えられる。そこを補うものとして、いわゆる「出会い系」ではない結婚情報紹介事業がインターネットを中心に盛んになってきており、経済産業省の調べでは結婚相談行・結婚情報サービスの市場規模が500~600億円、3700~3900程度の事業者が営業しているという。
かつてであれば、そうした結婚紹介所に出向いて相談を受けたり、パーティーなどに参加したりするのが前提であっただろうが、インターネットが活用されるようになり、きわめて簡単に登録でき、心理的、経済的負担が少なくそうしたことが期待できるサービスになってきている。
だが、そう簡単にいくのであろうか。むしろ、バーチャルの場で、リアルで重要な人生選択をするのは難しいように思える。筆者があまりよい体験ができていないというやっかみ半分で言っているのではない。非常にセグメント化された条件はマッチングしにくいのである。
こうした結婚情報紹介サイトでは、自分のプロフィールに加えて求める相手の条件を設定し、それにマッチングする相手を自動的に紹介して行くのだが、この条件設定が冒頭に挙げた「車選び」に非常に似通っている。「身長=全長」「体型=全幅・車重」「年収=販売価格」・・・など、これに加えて「顔写真=設計・デザイン」というような具合である。つまり、カタログを見て、自分の購入できる予算と求める条件に応じて装備オプションを考えて車選びをしているのと同様なのである。まるで人間をカタログで選んでいるようなものだ。
条件が合う人が現れたとしても、非常にピンポイントで狭く、セグメント化された条件なので、その後の条件の変化(失業や転職、転勤等)が訪れた場合にその人がパートナーとしてふさわしいと考えられるのか、果たして疑問である。
また、写真を掲載すればアクセス数は非常に高まるが、見た目だけで判断できるのであろうか。好みはあるだろうが、見た目と実際の人物のよしあしは別物である。井上章一氏は著書「美人論」(朝日新聞社)の中で、「美人」の尺度は相対的なものであるとしている。身分制度の厳しかった江戸期の上層階級では、見た目の美人であることよりも家柄同士の釣り合いが求められ、むしろ社交性が求められるようになった明治期以後、美人であることが結婚の条件として重要視されたという。
技術の発達によって写真や条件によってパートナー選びの情報が簡単に入手できるようにはなり、痒いところに手が届くようにはなったが、セグメント化、ピンポイント化された条件の中で果たして「運命の人」は訪れるのであろうか。お互いにずるい条件を出し続けることによって、パートナー選びは長期化する。あまり良い表現では無いかもしれないが、次に良いネタが出てくることを期待して待ち続ける回転寿司のようなものであり、よりよい条件探しをすればするほど長びき、その間に喜ぶのは人間関係を金銭化できる業者だけなのかもしれない。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

リアルとバーチャルの狭間で(ロケ地めぐりの悲喜こもごも)

 私も観光旅行は好きだが、そもそも「観光」という行動は、観光をほとんどしない知り合いの観光学者(非常にパラドックスだが)に言わせると、回帰的な円周運動上にある「確認行為」なのだという。つまり、観光旅行である限り、必然的に出発地点に戻らなければならないが、それだけでなく、観光地に行く時、事前にその場所の情報をまるで知らないということはないのであって、メディアや他の人の体験などから何らかの情報を間接的に知った上でその場所に行くことになる。だから、よく言われることだが、現地に行って「写真と同じ」「まるで写真のような風景」という言葉が発せられるのである。
 その観光旅行自体は、もともと宗教的な礼拝行動や物見遊山などが原点であったが、最近ではいろいろな観光旅行が登場している。その中に「ロケ地めぐり」というものがある。
 つまり、映画やドラマの舞台になった場所を踏破するというもので、バーチャルなドラマの世界の中にリアルな自分を投影することにより、疑似体験をするというものである。これを見越して観光客を増やして地域活性化を図るために撮影場所としてドラマや映画制作者らを誘致する動きもあり、撮影の便宜を図るために、ロケーションボックスやフィルムコミッションという組織が全国各地に結成されている。特定非営利活動法人ジャパン・フィルムコミッションによると、2009年3月16日現在で全国101団体が加盟している。
また、「全国ロケ地ガイド」(http://loca.ash.jp/)というサイトもあり、ドラマや映画の撮影地が紹介されている。
私も、韓国語の勉強を兼ねて韓国ドラマを見ているうちに、しだいにいろいろなことに興味が出て、実際にドラマの撮影地に行ってみたいという気持ちを持つようになった。もちろん、そうした要望に応えるべくロケ地めぐりツアーなるものもあり、確実に安心していけるのであるが、そうではなく、自分で探し出して行きたいのである(もっとも他人のブログや体験記を参考にはするが・・)。ただ、それなりの苦労もあったので、ロケ地めぐり初心者の体験記をまじえて感じたことを紹介したい。
1本目は、MBCのドラマ「キツネちゃん、何しているの?」(原題・여우야 뭐하니、全16話、2006年制作)で、このドラマは、33歳独身のアダルト雑誌記者のコ・ビョンヒ(コ・ヒョンジョン)と、24歳のパク・チョルス(チョン・ジョンミョン)の年上女性と年下男性のカップルをめぐるラブコメディだ。
 この右の写真(いずれも筆者撮影)にある赤い灯台がドラマの一つの重要アイテムになっており、ドラマの中でもソウル郊外の現実の地名である烏耳島(오이도、オイド)として紹介されている。
実際にこの灯台は、黄海に面した京畿道の始興市(시흥시、シフン市)にあり、ソウル市中心部から地下鉄4号線で終点の烏耳島駅までおよそ1時間半かかり、さらにそこから約6km先のこの場所までバスで20分ほど移動しなければならない。
さて、問題は次の写真である。
ドラマの途中で、ビョンヒとチョルスがバイクに乗って烏耳島に再び訪れ、この写真のように灯台が再登場して、ビョンヒの心が揺れ動くシーンが描かれているのであるが、実際にはバイクに乗っていてはこのようには見えないのだ。
この写真は、烏耳島の近辺にある始華湖(시화호、シファホ)の締め切り堤防上にある道路で、沖合約15kmにある大阜島(대부도、テブド)から戻るバスの中から見たアングルである。つまり、バイクの高さでは反対車線の仕切りでさえぎられてしまってこのようには見えないのである。これも現実と虚構のギャップである。
二本目は、これもまたMBCのドラマ「ありがとうございます」(原題・고맙습니다、全16話、2007年)で、認知症の祖父と輸血事故でHIVに感染した娘を持つ小さな島のシングルマザーのイ・ヨンシン(コン・ヒョジン)と、優秀だが型破りな外科医ミン・ギソ(チャン・ヒョク)の話である。テーマは非常に重たいが、決して暗いわけではなく、毎回涙なくしては見られない非常に美しいストーリーなのである。
舞台となったプルン島(푸른도、青い島)は架空の島だが、実際には全羅南道の新安郡の曾島(증도、チュンド)である。ここには、光州広域市のバスターミナルからバスで智島(지도、チド)の船着場まで約3時間、そこから船を乗り継いで15分かかる。イ・ヨンシンが祖父と娘の三人で暮らしていた家(写真)には、曾島にあったレンタル自転車(無料なのは良いが、空気がほとんどなかったママチャリ)を使って片道40分かけて海上に作られた道を伝って、隣の華島(화도、ファド)に渡ってようやくたどり着いた。
ただ、ドラマの撮影当時と筆者が見た絵は異なる。何が違うかというと赤い屋根の母屋の前の広い庭は現実にはなかったのである。ロケ地を訪れる多くの車のために駐車場として広げられている。
何のためにドラマ地めぐりをしているかというと、笑われると思うが、虚構であるドラマの中に自分を投影して、再体験したいのである。ただ、灯台も赤い屋根の家もすべて虚構だが現実には存在している。一方で、現実にありながらそれらはドラマで意味づけられた虚構なのである。その現実を見て喜び半分、ガッカリ半分なのである。つまり、「ドラマで見たのと同じ」なのだが、どこかがドラマとまるで違うのである。まあ、そういうことを感じながら行くのも楽しみなのだが・・・・。
ただ、最後に一言。虚構でなく、まさに現実に襲われたのだが、この家に行く途中にある小学校(ここも重要な舞台なのだが)から、黒い大型のイヌが勢いよく飛び出してきて追っかけてきた。何とか振り切ったものの、一本道なので同じ道を帰らざるを得ず、すこし警戒しながら近づいていったら、今度は黒に加えて同じ大きさの白のイヌが勢いよく走ってきて、「まさか」と思ったら、筆者が標的!空気の抜けたママチャリでしかも向かい風と砂利道というハンデを追いながら、必死になって逃げても、逃げても追いかけられ、ようやく500~600mぐらい走ってあきらめてくれたが、ロケ地めぐりは、気力・体力・根気に勇気が必要なことを実感させられた。

主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2009年4月2日木曜日

「情報通信メディア環境研究所(IICME)」設立にあたって

「情報」と「通信」と「メディア」は、特に現代において、切っても切れない関係にあると言って良いと思います。そもそも「情報」は、それ自体に価値を持っていますが、伝達されなければ、その価値も小さくなってしまいます。これまでの歴史の中で、この情報をいかに伝達し、あるいは、いかに密閉するかによって、人は「情報」そのものの持つ価値を最大化してきました。一般的に、特に、インターネットとその文化が普及する現代においては、「情報」は伝達され、伝達された先で共有されることで、その価値が何倍にもなると言って良いでしょう。この「情報」を伝達、つまり、運ぶ役割を果たしているのが「通信」です。近年、インターネットと携帯電話の普及によって、いわゆるIT革命と称される事態が起こりました。これは「情報」そのものというよりも、その「通信」手段の飛躍的なイノベーションが、「革命」までをも引き起こしたわけです。従って、この「通信」とその上に載る「情報」は、そもそも切っても切れない関係にあるのは自明です。

 それでは、「メディア」はどうでしょうか。ご存知の通りメディアはメディウムの複数形で日本語においては「媒体」と訳されることが多いのですが、この「媒体」という概念は歴史的にちょっと扱いずらい代物でした。ハーバート・マーシャル・マクルーハンが、その大著である『メディア論』で述べるような「メディア」はアカデミズムの中で確固たる地位を獲得していますが、実社会における「メディア」とは、ちょっと厄介です。

 つまり、メディアは媒体な訳で、何者かによって媒介されてくることが前提になります。そう考えるとウィルスの様にも考えられます。媒介された媒体とは、言い換えれば、「通信」に載った「情報」と非常に近いと思えます。従って、「情報」、「通信」、「メディア」という言葉を並べたとき、前の2つに関しては、極めて親和性が高いのですが、最後の「メディア」について言えば、前者の2つを言い換えたに過ぎないかもしれません。

 しかしながら、一般論として「メディア」というと、日本的な「マスコミ産業」を想像される場合もあるでしょうし、紙にプリントされた写真のような「何か」を想像されることもあると思います。どちらかと言えば、アカデミックな「メディア」を、そのまま理論的に使うよりも、現代においては、「メディア産業」一般として捉えた方が自然に感じます。

 さて、「産業」に触れたついでですが、「情報」、「通信」、「メディア」には、必ずそのバックグラウンドに「産業」が見え隠れします。試しに、それぞれの単語の後に産業を付けてみましょう。「情報産業」、「通信産業」、「メディア産業」。すべて、成り立っている実態のある産業です。産業分類的に分けることが可能なのであれば、これらは、似て非なるもの、つまり、別々に扱うことも可能であるということです。しかしながら、この3つは、先にも述べたとおり、それぞれの距離が遠い存在ではありません。「情報」と「通信」が切っても切れないように、あるいは、「情報+通信」に「メディア」が似ているように、非常に近い存在なのです。

 さて、そうなってくると、この3つは、学術的にも、実務者的にも、色々なところから「斬る」ことが可能になってきます。可能になるというよりは、色々なところから斬ってみると面白い題材であることがわかるのです。

 情報通信メディア環境研究所では、さまざまな分野の若手の研究者を中心に、実務家を交えながら、実名・匿名で、この3つを、それぞれの視点で忌憚無く斬ってもらうためのインフラとしてブログを立ち上げました。研究者にしても、実務家にしても、情報、通信、メディアに関わっていることが前提ではありません。様々な学際領域から、この3つを自由に斬ってもらいたいというのが、主宰者側の意図です。

 従って、敷居の高い「レフリー論文」や「研究ノート」といった方法をとらず、思っていることを、例えそれが未完成であっても、ブログに「書いてみる」ことで、すばらしい「斬り口」が見つかるのではないかと期待するのです。

 実名の主任研究員の方をはじめ、匿名の研究員、客員研究員の方々に感謝をしつつ、当研究所設立の挨拶と代えさせていただきます。

情報通信メディア環境研究所
主宰 兼 代表主任研究員(T) 専門:情報産業論・メディア技術論