2009年4月5日日曜日

「間違いだらけのパートナー選び」!?

30年続いた徳大寺有恒さんの著書「間違いだらけの車選び」シリーズ(草思社)をもじって、このタイトルをつけたが、この原稿では、筆者(40歳♂独身)の結婚相手紹介サイトの体験を基に、現代の結婚事情なるものを書いてみたいと思う。
現在は、晩婚化、少子高齢化の社会だが、厚生労働省の人口動態統計特殊報告の「平成18年度『婚姻に関する統計』」のうち、平均婚姻年齢をみると、1975年には平均初婚年齢が夫27.8歳、妻25.2歳であったのに対し、それから30年を経た2005年にはそれぞれ31.7歳、29.4歳となっている。また、合計特殊出生率も1.75から1.26に下がっている。1985年の男女雇用機会均等法施行を契機に、憲法が求めている法の下の平等が働く女性にもようやく保障されるようになり、実態での差別待遇はあるものの、それ以後、女性の社会進出を促すきっかけを作った。このことや女性の権利獲得運動の結果、晩婚化や少子化の一つのきっかけになったという指摘も良く見受けられるが、当然ながらそれだけとは言えない。経済構造を考える時に、社会を構成する人口が減少することは、ただちに市場規模の縮小を意味する。
だからといって「産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」などと発言して顰蹙を買った柳沢伯夫厚生労働大臣(2007年1月当時)や、全日本私立幼稚園連合会主催の公開討論会(2003年)で「集団レイプする人はまだ元気があっていい、正常に近いんじゃないか」と発言した太田誠一衆議院議員(彼は自由民主党の人権問題調査会長を務めたが・・・)、「子どもを作らぬ女性を税金で見るのは変」(同年)とした森喜朗元首相のような、噴飯物のカン違い発言は困るのである。
女性の人権が確保されるということは、ひとり女性のためだけではない。女性の社会的地位が向上することによって、男性の人権の向上ということにも繋がるのである。先に述べた日本国憲法第24条では、両性の本質的な平等に基づく婚姻を国が国民に対して保障しているのであって、ここでは形式的な平等を求めているのではない。これを作り出したベアテ・シロタ・ゴードン氏は、戦前の日本女性の置かれたひどい状況をつぶさに見て、戦後GHQ民生局のスタッフとして憲法制定にかかわった際にこの規定を生み出し、戦後の女性の地位向上が図られた。しかし、現在の日本では、憲法改正を求める政治家(もちろん女性も含まれている)たちが、子ども達の福祉や少子高齢社会を改善するために、女性に法的・社会的な平等よりも、母親役をより強く求める動きがあり、この第24条の規定を後退させる動きすら出ている。
少し前段が長くなったが、晩婚化、少子高齢社会というものは、むしろ、結婚という制度をめぐる価値観の多様化ということが挙げられよう。
イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ氏は、単に性欲に基づくパートナー獲得競争から決別し、「ロマンティック・ラブ」が誕生したことを人類の特徴の一つとして捕らえている。また彼は、歴史的に男性による女性支配を強いてきた家族ではなく、両性の平等による「感情の民主制」をも唱えており、私もこの点に非常に強く賛同する(男性が女性を支配してきた歴史的経緯があるにせよ、各家庭での実質的な支配権がどちらにあるかは別だが・・・)。
ギデンズ氏の言う様に、恋愛感情を持つことによって、さまざまな悲喜劇が繰り広げられてきたし、それにまつわる小説や映画、ドラマなども数多く誕生してきた。ただ一度の人生に「運命の人」とのめぐり合いを求めるのは、人のサガであろうが、次第に「条件の人」探しになっているように思えてならない。
いわゆる伝統的な見合いでは、世話焼きな人が仲人になったり、友達が紹介したり、適齢期にある両性を引き合わせたものだが、こうした風習が次第に廃れるようになった。恋愛結婚が相対的に増えたこともあるが、地縁や血縁による人間関係が分断された現在の社会では、めぐり合いのタイミングを逸することも多く考えられる。そこを補うものとして、いわゆる「出会い系」ではない結婚情報紹介事業がインターネットを中心に盛んになってきており、経済産業省の調べでは結婚相談行・結婚情報サービスの市場規模が500~600億円、3700~3900程度の事業者が営業しているという。
かつてであれば、そうした結婚紹介所に出向いて相談を受けたり、パーティーなどに参加したりするのが前提であっただろうが、インターネットが活用されるようになり、きわめて簡単に登録でき、心理的、経済的負担が少なくそうしたことが期待できるサービスになってきている。
だが、そう簡単にいくのであろうか。むしろ、バーチャルの場で、リアルで重要な人生選択をするのは難しいように思える。筆者があまりよい体験ができていないというやっかみ半分で言っているのではない。非常にセグメント化された条件はマッチングしにくいのである。
こうした結婚情報紹介サイトでは、自分のプロフィールに加えて求める相手の条件を設定し、それにマッチングする相手を自動的に紹介して行くのだが、この条件設定が冒頭に挙げた「車選び」に非常に似通っている。「身長=全長」「体型=全幅・車重」「年収=販売価格」・・・など、これに加えて「顔写真=設計・デザイン」というような具合である。つまり、カタログを見て、自分の購入できる予算と求める条件に応じて装備オプションを考えて車選びをしているのと同様なのである。まるで人間をカタログで選んでいるようなものだ。
条件が合う人が現れたとしても、非常にピンポイントで狭く、セグメント化された条件なので、その後の条件の変化(失業や転職、転勤等)が訪れた場合にその人がパートナーとしてふさわしいと考えられるのか、果たして疑問である。
また、写真を掲載すればアクセス数は非常に高まるが、見た目だけで判断できるのであろうか。好みはあるだろうが、見た目と実際の人物のよしあしは別物である。井上章一氏は著書「美人論」(朝日新聞社)の中で、「美人」の尺度は相対的なものであるとしている。身分制度の厳しかった江戸期の上層階級では、見た目の美人であることよりも家柄同士の釣り合いが求められ、むしろ社交性が求められるようになった明治期以後、美人であることが結婚の条件として重要視されたという。
技術の発達によって写真や条件によってパートナー選びの情報が簡単に入手できるようにはなり、痒いところに手が届くようにはなったが、セグメント化、ピンポイント化された条件の中で果たして「運命の人」は訪れるのであろうか。お互いにずるい条件を出し続けることによって、パートナー選びは長期化する。あまり良い表現では無いかもしれないが、次に良いネタが出てくることを期待して待ち続ける回転寿司のようなものであり、よりよい条件探しをすればするほど長びき、その間に喜ぶのは人間関係を金銭化できる業者だけなのかもしれない。
主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

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