2009年4月8日水曜日

マスメディア制作の「映画」だというのに・・・

最近、テレビ局や新聞社などのマスメディアが映画制作にかかわることが多くなり、こうした作品が非常に興行収入もよいという。テレビ草創期には映画会社がいわゆる「五社協定」(一時期六社)を結び、客を奪われまいと、自社専属の映画俳優をテレビに出演させないことがあったが、その時代からすると、隔世の感がある。
だが、そうしたマスメディア制作の映画を観ていて違和感を覚えることがある。各々よくできている映画なのだが、どうしても腑に落ちないので、いくつか指摘しておきたい。ただし、ストーリーを言ってしまうと、観ていない人の楽しみを奪うので、無粋なことをしないように問題提起していきたい。
一本目は、「容疑者Xの献身」(西谷弘監督作品、2008年、フジテレビジョン、アミューズ、S・D・P、FNS27社:http://yougisha-x.com/ )では、川沿いの公園で死体が発見される。一瞬のことなので見間違いかもしれないが、この時、上空を飛ぶ取材用と思しきヘリコプターの映像を見て「おやっ」と思った。それというのも、4機ほどのヘリコプター同士が向かい合ってホバリングしていたのである。これは通常はありえないし、実写とも思えない(おそらくCGだろうが・・)。なぜかというと、回転翼機(つまりヘリコプター)で同一対象を航空取材する場合には「右旋回」が原則だからだ。向かい合ったヘリコプターでは空中衝突の恐れがあり、これを回避するルールが設けられている。具体的には、取材ヘリコプターの騒音問題と取材機の事故を契機に作られた日本新聞協会編集委員会の「航空取材に関する方針」(1965年6月9日制定)、「航空取材要領」(1965年7月14日制定、1985年1月10日一部修正、1997年3月13日改定)に基づくのだが、多少高度が異なろうと、取材対象に向かって同一方向で旋回していなければならない。つまり、これを知っていればこういう描写にはならなかったはずである。
次の二本は同じ問題意識として取り上げたい。
一つは「誰も守ってくれない」(君塚良一監督作品、2009年、フジテレビジョン、日本映画衛星放送、東宝:http://www.dare-mamo.jp )は、突然容疑者の家族になってしまった女子中学生が主人公の映画だ。
もう一つ、「ジェネラル・ルージュの凱旋」(中村義洋監督作品、映画「ジェネラル・ルージュの凱旋」製作委員会、http://general-rouge.jp/)は、「チームバチスタの栄光」のシリーズ二本目だが、殺人と収賄容疑の事件を描いており、今の救急医療が置かれている状況を見事に描きながら良質のサスペンスになっている。
両作品とも非常にメッセージ性がある良い作品なのだが、やはり腑に落ちない。なぜかというと、作品中で事件・事故を取材する取材陣が両方とも「迷惑な存在」「やっかいもの」として描かれているからだ。「誰も」はフジテレビが、そして「ジェネラル」は製作委員会方式を取っているので、一社が直接製作担当をしているわけではないが、TBS、毎日放送、中部日本放送、RKB毎日放送、北海道放送、朝日新聞社が携わっている。
つまり、何が言いたいかというと、報道機関を自負するマスメディア企業が並んでいるにもかかわらず、両作品とも自分たちの仲間の仕事に対するリスペクトが見られないのである。
たしかに、取材陣が取材対象者を囲むことによって問題となることがある。私の知っている限りだが、1988年3月に高知学芸高校の修学旅行団が中国・上海で列車事故に遭い、生徒ら28人が死亡した。この時、高知空港(現・高知龍馬空港)で、悲嘆に暮れる遺族たちにマイクやカメラを差し向けて取り囲んだ取材陣と遺族の間で大きなトラブルになったことがあった(この後、青森放送は事件・事故の遺族取材を自粛する自らのルールを作ることで先鞭をつけたが、このように明確化したのは他には見られなかった)。
その後、いわゆる「メディア規制三法」(個人情報保護法、人権擁護法案、青少年有害社会環境対策基本法案)が法制化されようとしていたほぼ同時期に、いわゆる「メディア・スクラム(集団的過熱取材)」問題が議論された。日本新聞協会編集委員会が下部機関を設け、神戸連続小学生殺害事件(1997年)、和歌山カレー事件(1998年)、大阪池田小学校事件(2001年)などの事例を基に議論し、「集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解」(2001年12月6日)をまとめ、日本民間放送連盟も「集団的過熱取材問題への対応について」(2001年12月20日)をまとめた。
これにより、メディア・スクラム(集団的過熱取材)が起きた場合には、都道府県ごとにある報道責任者連絡会議の幹事社を窓口に、新聞協会・民放連加盟社間で取材の調整を図ることになる。奇しくもこの仕組みができた直後に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の「拉致被害者」らが帰国、この方法により取材が調整された。ただし、2006年に秋田県で起きた連続児童殺害事件では、この仕組みによる調整はなされたものの、実際に多数の取材陣が小さな集落に集中し、運用上の課題は多く残っている。一方で、取材・報道の自由、「知る権利」を考える時に、こうした一斉自粛が良いのかどうかはもう少し議論しなければならないであろう。また、雑誌等が蚊帳の外に置かれたまま作られた枠組みが良いのかどうかは別途議論しなければならない。
このように取材現場で混乱が起きた際に、まったくの無策ということではないのだが、二本の映画では、群がる取材陣がまさに「迷惑な存在」「やっかいもの」として描かれているのである。
事件や事故を取材・報道をするということは、社会全体でこうした問題を解決するための判断材料(情報)を集め、伝える活動である。その努力に対するリスペクトが見られないのが残念だし、取材・報道の理屈が軽視されているとしか思えないのである(一方で、蛸壺的な理屈になっているからそういう競争になってしまい、問題を引き起こしてしまうのかもしれないが・・・)。報道機関である会社の映画制作部門は、社内でどのように取材・報道部門と連携して考証していたのであろうか。社内での部門同士の軋轢があってあのような描き方になるのか、それとも自虐的にこういう現象もあるのだということを主張して描いたのか、いささか腑に落ちない。
(もっとも、「誰も」では、マスメディアよりも、ネットユーザーをもっと「迷惑な存在」「やっかいもの」として描いていたが・・・)
このように、少しの連携があれば、もう少し良い表現が期待できたかもしれないだけに残念である。ただ、映画自体は非常によくできていると思うので、三作品とも観ることをお薦めする(「誰も」は事前に放送されたドラマと併せて観た方がよりストーリーが理解しやすい)。

主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

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