2010年12月30日木曜日

ウェブサービスの生態系

 2010年最後の投稿は、このタイトルで考えてみたいと思う。

 「ウェブサービスの生態系」ができはじめている。
 海外のITメディアでは、少し前から「Web Ecosystem」という言葉が使われている。「生態系」とは一体何か?メディア論の歴史を紐解くと、メディアの生態系についての研究がちらほら見受けられるが、そういった広義の意味ではなく、あくまでもインターネットの世界、また特に、ウェブサービスの世界について考えてみたい。

 WEB2.0という言葉が語られて久しいが、WEB1.0の時代には、「ウェブサービスの生態系」は存在しなかった。つまり、情報の出し手と受け手が、「比較的」明確に分かれていた。それが、WEB2.0の時代になると互いに交差するようになってきたというのがここ20年弱の流れである。

 もっと、話を個別具体的にわかりやすくするために、グルメに関する有名ウェブサービスを例にとって考えてみよう。例えば「ぐるなび」。サービス単独で一部上場を果たすまでになったこのサービスは、名実共に、歴史も長く売上も大きなサービスである。しかし、WEB1.0のビジネスモデルと言われ、どうやら、「ぐるなび」をカバレッジしている、株屋からは「売り」銘柄のようである。つまり、加盟店から「ぐるなび」へのページ掲載料を強大な営業力で取り、そして次々と加盟店を増やしていく、このビジネスモデルは、WEB1.0の典型であり、WEB2.0の時代にはついていけない限界があるという見方である。確かに、「ぐるなび」のビジネスモデルに、「食べログ」で言うところの「★」評価を付けた瞬間、「ぐるなび」は崩壊する。つまり、高い掲載料を支払っている加盟店(=お店)の評価が低いことが公にさらされると、加盟店が逃げる可能性があるからだ。しかし、現在のインターネットユーザーは、実は、「ぐるなび」モデルよりも「食べログ」モデルを望んでいる。つまり、色がついていない多くのユーザーの「★」評価が最も信じられる、という類の言説である。これは、確かにその通りではないだろうか。本を買うときに、本屋に並んでいる本の帯の言葉を信用するよりも、Amazonのレビューを見た方が断然に「ためになる」のと一緒である。さらに進んで最近は「Alike.jp」というサービスも出てきた。これは、「食べログ」の口コミをさらに進化させて、いわゆる「ソーシャル」要素をメインに押し出したサービスである。つまるところ、TwitterやFacebookやmixiの情報がソースとなるのである。

 さて、話を元に戻そう。「ウェブサービスの生態系」という意味においては、この例にある一番古参の「ぐるなび」と新参者の「Alike.jp」の比較がわかりやすい。「ぐるなび」は他のウェブサービスとの連携を原則として行なっていない。いわば、「ぐるなび」は「ぐるなび」で完結しているのである。一方の「Alike.jp」は、上述のように各種ソーシャルサービスからの情報をソースに、サービスを作り上げている。これは、ウェブサービスの生態系の中に自分のサービスを置いているといえる。この裏には、「API(Application Program Interface)」の公開、というWEB2.0時代の流れがある。

 WEB1.0時代までのサービスは、自分たちのサービスが溜めた「データ」は財産であるから、一生懸命に守っていた。しかし、WEB2.0時代のサービスは、その財産たる「データ」をAPIを通じて、一般に広く開放・公開していこう、という流れが急激におこったのである。従って、TwitterもFacebookもmixiも例外なくAPIを公開しており、これらに「繋ぐ」ことで、「Alike.jp」のようなサービスが可能になったのである。つまり、これが、「ウェブサービスの生態系」の「一部」である。無論、「ぐるなび」もAPIを公開はしているものの、ビジネスモデルがWEB1.0のままであるため、このAPIが上手く機能しているとは言いがたい。「上手く機能しているとは言いがたい」というのはどういうことかといえば、APIを使って、そのAPIを公開しているサービスの資産を使って新しいサービスを作った人達が、「商売ができているか否か」である。本件に限らず、これまでも、多くのサービスがAPIを急激に公開していきた。しかし、そのAPIを使ったサービスが「商売」として成り立つ例は極端に少なかった。

 しかし、特にTwitterの登場以降、そのAPIを利用したサービスでも「商売」が成り立つ例が目立ってきたのである。先ほど生態系の「一部」と書いたのは、「商売が成り立つか否か」という線引きのためである。本来的なエコロジーは、サステインナブルでなければならない。つまり、コストを吸収できる売上がなければ、エコロジーとは言えない。そういう意味で、広義のNPO活動で無い限り、完全な「ウェブサービスの生態系」を成しているという意味においては、大元のサービスだけではなく、APIを通じたサービスがプロフィッタブルであることが前提であると思う。

 つまり、上述の例で言えば、「Alike.jp」はTwitterの生態系を成している、といえるのである。その他にも、Twitterに写真掲載をするサービスや、140字対策で、URLを短縮するサービスなど、Twitterの資産を存分に利用し、広告収入で商売を可能にするサービスは最近になって多く立ち上がってきた。これが本当の「ウェブサービスの生態系」なのである。一方で、大元のサービスが、何らかの理由でサービスを中止したり、あるいは、APIの公開をやめてしまったり、または、APIが何らかの理由で動かなくなってしまうことに対する不安は大きい。実際、日本のいくつかのサービス(ここでは名言は避けるが)において、APIを限定的に公開しており、実際APIの利用を審査性にして、自社に不利なサービスが少しでもあると、APIを利用させない事例も見られる。しかし、大々的に「APIを公開」とプレスリリースを出していたりする。これは、本当のAPIの公開、つまりは、本サービスを中心とした生態系の自然発生を促す行為にはなりえないのではないか。

 WEB2.0が語られた時代、つまりは、日本においては、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』で語られた世界では、まだこの「本当」の「ウェブサービスの生態系」については触れられていなかった。しかし、今まさに、世界的に大きなサービスを中心とした生態系ができつつあり、同時に、WEB2.0時代が完成に近付いているタイミングなのかもしれない。「ウェブサービスの生態系」については、今後も注視していきたい。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年11月18日木曜日

[尖閣問題]「あの映像」から読み取れること、読み取れないこと

 尖閣諸島(中国名・魚釣島)沖で2010年9月7日に起きた海上保安庁の巡視船「よなくに」と漁船「みんしんりょう5179」(表字外のためひらがな標記)の事件の映像がyoutubeに流されたことについて、毎日のように大きな扱いで報道されている。

 多くは、あの映像を国家公務員である海上保安庁の保安官が流出させたことについての国家公務員法の守秘義務違反のみが問題とされているようだ。国家公務員の守秘義務違反については、外務省機密電文事件(西山事件)や裁判員制度の裁判員の守秘義務について語られることが多く見受けられる。流出させた行為については別途検証の必要があろう。

 しかし、あの「尖閣諸島中国漁船衝突事件 流出ビデオ 4/6」の映像を見る限りにおいて、読み取れること、読み取れないことについてのコメントがほとんどなく、また、その限られたコメントもかなり「被害者」という視点から述べられたものであるので、もうすこし冷静に、かつ客観的に「あの映像」を分析してみたい。

 あらかじめ断っておくが、私は船舶の操縦免許を持っているわけではない。ただ、船舶で少し仕事をしていた経験があるので、その限りにおいて、興味を持っている、あるいは見聞きして調べたという範囲で今回の映像を検証してみたい。


○船は急に止まれないし、曲がれない

 「狭い日本そんなに急いでどこに行く」「車は急に止まれない」という標語が1970年代の交通戦争を象徴するものとして使われたが、車以上に「船は急に止まれない」のである。

 車はタイヤと地面の摩擦によって急加速もできるし、急減速もできる。ところが、抵抗の少ない船はよりとまりにくいのである(もちろん抵抗がゼロであるわけではなく、造波抵抗などがあり、それを軽減するためにバルバスバウ(球状船首)やスクリューの設計などが重視されるのだが)。高校の物理で「慣性の法則」を教えているものと思うが、止まっている物体、あるいは等速度で動いている物体は、力を受けない限りその状態を変えることはなく、動いている物体は摩擦によるエネルギーの放出をしない限り、止らないのである。水にも抵抗はあるが、陸上や空中を移動する以上に抵抗が少ないので、あれだけ巨大な船が相当の重量物を運んでも採算に見合うのである。

 それでは、どのくらい止まりにくいか。船は発注主の依頼によって創られるオーダーメイド船が通常であるため、実際に造ってから進水して儀装がほぼ完了した後、海上公試(公式試運転)を行う。その際に、旋回試験、速力試験とともに、クラッシュ・ストップ・アスターン(クラッシュ・アスターン)試験を行う。「クラッシュ」とは、エンジンをクラッシュさせる恐れのあるほど全開運転であり、「アスターン」は「後進(後退)」を意味する。緊急停止の際にはそれこそ、機関を故障させるか、あるいは寿命を大幅に縮めるほどの全開運転を行うので、かつて日本海軍の軍艦の全開を伴う運転は海軍大臣の許可がなければできないぐらいであった。

 さらに、スクリュー船の場合には、止まりにくいだけでなく緊急停止時に舵が効かない。豪華客船のように乗り心地を重視してスクリュー自体が回転して舵を切る船もある(燃費は多少犠牲になる)が、おおよその船はスクリューの後ろに舵を設けている。通常の運行時は、スクリューの起こす力を舵に当てて、面舵、取り舵をとることができるが、スクリューを逆転させてしまうと、水流がまともに舵に当たらずに効かなくなってしまうのである。どのくらい止まらないのかというと、池田良穂氏の「船の最新知識 タンカーの燃費をよくする最新技術とは?」(ソフトバンク新書、2008年)で紹介されている事例で言えば、20万トンタンカーならば、緊急停止の指令後、進行方向に約2km、横方向に約2kmずれてしまい、完全停止までに14分40秒ほどかかってしまうのである。規模は違うものの、漁船であれ、止まりにくいことは想像できるのではないだろうか。


○「あの映像」から読めることは?読めないことは?

 そのような前提を基に、「あの映像」をみてみよう。この映像を見る限り、①海上保安庁の巡視船「よなくに」が中国漁船にぶつけられた、②「よなくに」が中国漁船にぶつかった、③「よなくに」が意図的に中国漁船にぶつかりに行った、という三パターンが読み取れるし、読み取れないのである。

 つまり、どういうことかというと、実際の映像を見ながらのほうが分かりやすい。問題の映像は11分25秒だが、衝突自体は2分15秒から17秒の間に起きている。注目していただきたいのは、二点ほどある。

 一つは中国漁船の動きであり、もう一つは、「よなくに」自体の中国漁船との位置関係である。
 まず、中国漁船の動きだが、衝突の直前の1分30秒からエンジンをかなり回している。これに対して、海上保安庁の職員と見られる撮影者は、「また、黒い煙が上がって、放出流が出ています。前進行足(ぜんしんいきあし)です」といっている。引き続き、1分51秒から58秒ごろに中国漁船はエンジンを再び回している。これを見た撮影者は「またエンジンの回転が上がりました。えー、本船の方に船首を向けてきます。挑発的です。本船に船首を向け挑発的な動きを見せています」とコメントしている。実は、このエンジン全開と見られる煙の放出は中国漁船が前進しようとしたのか、後進(後退)、つまりブレーキをかけようとした行為なのかが分からないのである。止まろうとして、エンジンを全開にしてクラッシュ・ストップ・アスターンをかけたともいえなくはないのである。

 もう一つ「よなくに」自体の動きだが、2分9秒頃から明らかになってくるのは、航跡が進行方向に向かって左に曲がってきていることである。つまり、中国漁船の進行方向に対して前方で取り舵(左)を切ったことになる。もし、中国漁船が危険を察知してクラッシュ・ストップ・アスターンをかけたのだとしたら、舵の効かない状態でぶつからざるを得ない状況になっているかもしれない。「よなくに」がなぜ取り舵を切ったのかという理由は分からないが、舵を切った事実は、航跡というはっきりした「証拠」が残ってしまっているため、否定のしようがない。となると、「よなくに」が中国漁船の前方に回りこんで回避しようがない状態に持ち込んだとも読めなくはないのである。こうなると、比較的小さな漁船とはいえ、船は急には止まれないのだから、たまったものではない。

 さらに言うと、「よなくに」が衝突直前にどのような速度で航行していたのかが読み取れないのである。
海上保安庁の船から見れば、撮影者の言うように確かに「ぶつけられた」ように見えるのかもしれないが、動いている物同士の映像は、相対的にしか見えないのである。自動車や電車などに乗っていて、相手の自動車もしくは電車を見ていて、加速しているようだが実は減速していたり、その逆だったりということは日常的に経験していることだと思う。


○映像の視点は「撮影者」の視点

 以上に見てきたように、流出した「あの映像」は動いたものの上からの視線であるし、取締官である海上保安庁の職員の目線で撮影されたものである。だから、客観的な映像とは言えない。
 もちろん、中国側の漁船が「自国の海域」で操業していたこと自体はそれなりの意図や思惑があってのことだろうし、それは「よなくに」も「自国の海域」として警備をしていたという意味では同じである。衝突したという事実は厳然としてあるものの、そこからは①~③のどのパターンであったのか、両者にどういう意図があったかどうかまでは読み取れないのである。

 映像の流出自体は、国家公務員法の守秘義務違反になるのかならないのか(私は「形式秘」にも「実質秘」にもならないと思うが)が問題とされている。それはまた機会を改めて議論したいが、より大きな問題は、せっかく明らかになった「あの映像」自体を検証する動きにはなっていないことである。中国の漁船の行為を正当化したり、非難したりするつもりはない。ただ、以上のこと触れずに、あたかも①だけの論調で中国側を批判したり、「あの映像」を流出させたことの問題ばかりを検証したりしているマスコミや世論にも大きな問題があるのではなかろうか。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2010年10月31日日曜日

デジタル難民の行く先はどこ? 地デジ化体験記(その4)

 しばらく時間がたってしまったが、地上(BS)デジタル完全移行についてのちぐはぐぶりなところをもう少し書き留めておきたい。

○複雑すぎるデジタル難視聴対策の手続

 「地デジ難視対策衛星放送対象リスト(ホワイトリスト)」の対象地区になったことは第1回(2010年4月30日)、第2回(5月31日)で書き記したが、すぐに手続をしようとして、デジサポ⇒DPAに連絡して、申し込み用紙の郵送を希望したところ、「まずは市役所から地区を通して告知するのでそれを待ってほしい」(地区によって告知方法は違うらしいが)ということであったので、待っていたが約一か月たっても来ないので、痺れを切らして再度問い合わせをしたら、「すぐに送ります」という(だったら、最初から送ってもらいたいものだが!!)。

 また、申請も非常にわずらわしく、写真つきの住基ネットカードのコピーならば単独での提出が可能なものの、住民票や健康保険証、パスポート等は単独での証明ができず、免許書等の写真つきのものを併せて提出しなければならないという非常に厄介な申請になっている。
 それだけでなく、その書類がDPAに届いた後、電話による本人確認があり、その後、申請地に届いた確認のはがきを送り返さないと使用ができないというのだ(この時点までに、DPAは視聴者を犯罪者扱いしているのかと怒り心頭になっていた)。

 その一方で、そこまでしつこく確認を求めていながら、開通通知は全くなく、いつまでたっても映らない。そのため、問い合わせをしてみて、その方法を実施してみると映らない。もう一度確認の電話をすると、(向こうの決めた)期限内にチューナーでの受信がなされなかったので、暗号鍵解除の信号を止めたというのだ。DPAの言い分によれば、そこら辺は、「申請時の用紙に書いてあります」という。だが、申請書にはおおよそのスケジュールしか示されていないのであり、いつ開通したのかも視聴者は分からない。そんな不十分な説明で良いと思っているのだろうか。

○なぜ3台に限られるのか?

 上記の対象地区においては、3台までのチューナー(B-CASカード)が登録できるのだが、なぜ3台までに限定されているのか。DPAの説明によれば、総務省との協議等において、保有台数等を勘案して3台に決めたというが、ここには録画機の台数を勘定に入れていない節がある。そうなると、テレビ2台、録画機1台という勘定なのか。それ以上を保有している世帯は、不便をがまんしろということなのか。

 DPAの担当者は、「録画機を通して視聴してください」ということを説明していたが、録画機は主にチューナーとして使う目的であるのではなく、録画をするためのものである。それが副次的にチューナーとして使えるだけのことであり、シングルチューナーのデッキの場合には、視聴時間帯と同時間帯に放送されるいわゆる「裏番組」の録画ができないことになってしまい、録画機の本来の意味を半減させてしまう。こうしたちぐはぐぶりは、国とDPAの制度・政策設計の乏しさに根本原因がある。

 総務省やDPAはデジタル放送普及においてどうも録画機の存在を軽視しているとしか思えない。たとえば、DPAでは、デジタル受信機の普及状況を示すものとしてNHK独自の推定値としての普及状況(速報値)をウェブサイトに随時掲載している。2010年9月末現在で、地上デジタル放送(累計)で8814万台(「PDP・液晶テレビ」約5566万台、「ブラウン管テレビ」約72万台、「デジタルチューナー(チューナー内臓録画機も含む)」約1986万台、「ケーブルテレビ用STB」の小計約8569万台に「地上デジタルチューナー内蔵PC、JEITA発表値8月末現在)約245万台をあわせて」)としているが、これは各方面から指摘のあるように、ビデオに搭載されたチューナーをカウントしているのではないかという可能性がある。仮にその指摘が間違っているのだとして、それを別途集計しているならば、HDDレコーダーなどの録画機の普及台数なども別途公表すべきであるという別の問題も生じる(つまり、アナログHDD録画機などもいずれ不要になるのだから・・・)。
逆に言えば、仮に、DPAがウェブサイトに掲載しているNHKの数値が、テレビ単体の集計値だとするならば、なぜ難視聴対策地区では、録画機を含めて3台に限っているのか。

 一足先に2010年7月24日に完全デジタル化を実施した石川県珠洲市では、使用している受信機の台数により最大4台までのチューナーが貸与された。4台でも十分とはいえないが、一方で4台用意されているにもかかわらず、なぜ、デジタル難視聴世帯は3台に限られるのであろうか。むしろ、難視聴地区は買い替えの余裕があっても物理的に映らないのである。せっかく、買い替えをしても映らないテレビ・録画機になってしまうだけである(こういう救済はそもそも必要ないのであろうか、あるいは家族そろってお茶の間で視聴してくださいということを推奨しているのであろうか)。

 仮に受信している台数によって衛星使用料を衛星会社に支払っているのだとすれば、台数を限定することの推測もつくが、もしそうでなければ、衛星電波の照射を受けているだけのチューナーの台数を制限する理屈が分からない。

○国と視聴者のチキンレース

 2011年7月24日まであと266日(10月31日現在)。新聞紙面でもカウントダウンが行われているが、本当にとまるのか懐疑的にみる視聴者もいなくはない。また、集合住宅等ではその費用負担をめぐって折り合いがつかず、南関東地区の設置されているアンテナを目視してみても、依然としてVHFと思しきアンテナだらけである。アナログテレビでは、すでにレターボックス画面で黒枠の中にデジタルへの移行を呼びかけるメッセージで画面が「汚されている」が、現実の問題として、来年の7月にはアンテナ工事が間に合わず、デジタルテレビを見ることのできない「デジタル難民」が出てしまうことになる。総務省側は、7月24日が譲れない線としているものの、アンテナ工事殺到による限界についてはどうしようもなく、ようやく緊急対策として地デジ難視対策衛星放送対象の再送信を活用するという(『読売新聞』2010年10月28日付)政策を打ち出した。ただ、これもBS受信機・アンテナを持っていない世帯や、ビル陰などでBSが受信できない場所では、根本的な解決にはならない。

 こんなことをするよりも、アナログ放送のサイマル送信に補助を出して、2年ぐらい延期してはどうだろうか。アナログ送信設備は機材がすでに生産されていないため綱渡りになる問題はあるものの、そうすれば、関東地区でも「スカイツリー」の建設が間に合うし、北海道や山岳地区での中継アンテナの整備も間に合うではないのか。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制

2010年9月28日火曜日

電子書籍時代の到来と出版産業の崩壊

 数ヶ月前はじめて電子書籍の類を手にした。『ウェブ進化論』でおなじみの、梅田望夫氏が『iPadがやってきたから、もう一度ウェブの話をしよう』という書籍を、産経新聞出版からiPad、iPhone向けにリリースした。私は、iPhoneユーザーなので、AppStoreから450円でこのコンテンツをダウンロードした。読んでみた感想は、なかなかどうして。意外とこの手の電子書籍(コンテンツ)に抵抗のあった私だったが、「上手に」読めた。一番意外だったのは、iPhoneの大きさだ。電子書籍には小さいな、と思っていたのであるが、このサイズは適している。というか、速く読める。右上から左下の、いわゆる「斜め読み」が容易なのだ。したがって、ひょっとすると新書を読む速度よりも速いかもしれない。しかしながら、懸念していたことは、その通りで、気になったところのページを「折ったり」、気になった行に「線を引いたり」することができない。無論、この反論に対しては、たいてい、「それはアプリの問題で、線を引けて、付箋がはれるようなアプリを作ればいいんですよ」という答えが返ってくる。しかし、である。僕が思うのは、「あ、あの本どこだっけ」からはじまって、「確かこの辺だったな」となり、「あ、見つけた見つけた」と本を見つけて、「えーと、確かこの本のこの辺だっただかなぁ」とページを「ぱらぱらめくり」そして、自分で線を引いたところを「感覚的に」見つけることが、できるかといえば、それはどんな優秀なアプリができても難しいところだろう。まぁ、電子書籍元年。そこまで求めても仕方ないかもしれない。

 以前、セカンドライフを研究しているある先生に私の講義でゲストスピーチをしていただいたとき、セカンドライフのような3Dバーチャル空間では、「あ、あのピアス、この辺に置いたんだけど・・・確か、このクローゼットのこの辺に・・・」という「検索」ができるようになる、というお話があった。これには、目から鱗だったわけだが、電子書籍も、近い将来、何らかの形で、私のもどかしさを解決してくれることと思うのである。

 さて、話しを少し変えてみる。
 私の会社の株主に出版社がいることもあって、iPadやiPhoneのようなデバイスが世の中に出てきて以降の、電子書籍の取り組みについて、深く話し込むことがある。その一端に触れたいと思う。

 http://www.scribd.com/

 というサービスが米国ではある。未上場の状態で、二桁億の資金調達に成功したことでも有名なので、ご存知の方は多いかもしれない。このサービスは、誰でも自分で書いたドキュメントをアップロードして、インターネットでシェアすることができる。場合によっては、アップロードした自分の「作品」に自分で値付けをして、売ることもできる。その場合、2:8で、8が著者に入り、2がscribdの収益となる。現在の印税を考えれば破格の待遇だ。これは、完全な、C to Cサービスであって、scribdは、有料を含めた様々は形式でドキュメントを共有するプラットフォームを提供しているのである。後は、ユーザーが勝手に、色々な目的でドキュメントをアップしていく仕組みだ。

 これを思うとき、「出版産業」の崩壊が容易く頭に浮かぶ。私は兼ねてから、出版社は「ゼネコン」と表現してきた。究極的には「ゼネコン」や「代理店」はなくても、最終的なアウトプットは完成する。出版の場合、「編集者」が「著者」を発掘し、そして著者に作品を書かせ、それを出版社が「査読」をする。出版社からGOが出るまで、出版社の社員である編集者は、著者と一体になって「本作り」にまい進する。そして、本の出版許可が出されると、「紙屋」が登場する。紙屋は、輪転機を回して、数千部や数万部といった本を印刷する。次の出番は、「トウハン」や「ニッパン」に代表される取次ぎだ。私は、なぜ、これらの機能が必要なのかいまだに理解できないわけだが、とにかく産業の中で強い影響力を維持している。それからいくつかの過程を経てやっと本屋に並ぶわけだ。

 scribdのモデルは、これらの中間的な仕事を「無意味」として、そぎ落とす。究極のプラットフォームである。日本進出の噂もある中で、すでに斜頚産業化している業界は、戦々恐々としているのである。

 日本でも、ネオジャパン社が、ライブラ(http://libura.com/)というscribdに似たサービスをβリリースしている。このプラットフォームには、大手出版社が食指を伸ばしているという噂もある中で、同社は、IDC大手のビットアイルと新会社を作ることで合意している。日本にも、C to C電子出版の風が吹く日も近そうだ。

 私にいわせれば、「取次ぎ」とか「代理店」とか「ゼネコン」は不要である。特にインターネットの世界を知れば知るほど、そういった機能は嫌われるのである。しかし、先に述べたとおり、出版社の幹部と話しをしていると、どうも一気に、C to Cモデルに移れない「哲学」が存在しているようだ。彼らによれば、出版産業の衰退は認めるものの、最低限「編集者」は必要だという。つまり前述の「査読」による「権威付け」は、出版物を売る上では、絶対に必要だという論理である。私は、彼らの哲学に触れるまで、出版社の宣伝文句や権威付けなんかよりも、amazonの読者レビューの方が100倍信用できると思っていたが、どうもそうではない世界がありそうだ。『編集者という仕事』という本がこの時期に売れているが、ここでは、プロフェッショナルの編集者がいかに著者と一体となって、すばらしいものを世の中にアウトプットしていくかが書かれている。「編集者」のプロフェッショナリズムはリスペクトに値する。

 であるならば、プロフェッショナルたる編集者は、ゼネコンたる出版社に居るべきではない。電子出版の流れは、出版物そのものを電子化するだけではなく、出版産業をドラスティックに変革させている。変革というよりも、意図せず潰しにかかっているといっても過言ではない。先述の「scribd」にせよ「ライブラ」にせよ、その中間マージンを取る産業構造をゼロベースで考え直し、いらないものを極限までそぎ落とした結果、ユーザーに指示されるサービスに育ちつつある。少なくても「scribd」は米国で市民権を得たと言っても良いだろう。であれば、その新しいプラットフォームと、「編集者」や「査読」のような、そういった出版の歴史の中で培われたノウハウを融合させ、異常にコストのかかる産業構造をぶっ壊せば良いのである。つまり、こういった新しいプラットフォームを使えば、多くの著者が発掘され、優秀な編集者はフリーランスでこれらの著者と関わり、できるだけ安価に世の中にコンテンツをアウトプットする。その際、中間マージンを抜く輩は居ないわけだから、一生懸命、電子書籍を書いた著者と、それをプロフェッショナルとして支えた編集者に十分な利益が還元される、そういう世界である。

 これは、夢ではない。もうそこまで来ている。
 事実、大手出版社は軒並み大赤字らしい(上場していないので、財務諸表を確認したわけではないが)。そりゃ、そうである。そこへ来て、スマートフォンやタブレットコンピュータが続々と生産され、米国のamazonでは、キンドルベースの電子書籍のDL数が、紙の本の販売部数を越えている事実もある。

 出版、放送、新聞といった、既得権益にしがみついてきて、大産業化し、身動きの取れなくなった「ゼネコン」には、もはや終焉が近付いているといってもよかろう。なにせ、その業界に身をおく幹部自信が、身を持って感じているのだから。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年8月2日月曜日

言葉は電子帝国の論理に抹殺されるのか?

電子デバイスから消される言語

 iPadが5月28日、日本でも発売となり、大きな話題となっている。「電子書籍元年」と呼んで、販売減に悩んでいる出版界にとっては起爆剤となる可能性があるため、さまざまなプロジェクトが進められている。

 発売前日には、アップルストアや取扱量販店の前などで行列している姿が報道されていたが、ドラゴンクエストやWindows95の発売時の再来かと思えたが、沈黙の行列ではなく、Twitterでリアル中継されていた点では、時代の流れを感じた。

 私もiPadに興味を持っていて買おうとしていたが、しばらく断念している。なぜかというと、二つの理由がある。

 一つは初期ロットの不安定さを回避するということ、もう一つは、これが最大の理由だが、キーボード入力が韓国語に対応していないからである(筆者は少々韓国語を使うことがあるので・・・)。

 現在のところ、iPhoneは、英・仏・独・中・蘭・伊・西・葡・丁・瑞・芬・諾・韓・日・露・波・土・ウクライナ(ああ~、漢字がない、、、)、アラビア・タイ・チェコ・ギリシア・ヘブライ・インドネシア・マレーシア・ルーマニア・スロバキア、クロアチア語の計28言語(国別を除く)に対応している。多言語キーボードのサポートについては、セルビア語まで加えられている。

 ところが、iPadでは、メニュー言語で、英仏独日蘭伊西中露の9か国語に対応しているのみで、しかも中国語は中国本土で使われる簡体字だけである。また、多言語キーボードや辞書のサポートについては、それにフラマン語(ベルギーで使われるオランダ語)が加わっているくらいである。

 聞くところによると、iPadの韓国発売は来年だということであり、その時点でアップデートされて入力・表示が可能になるかもしれない。ただ、初期ロットを避けるという意味もあり、購入までには時期尚早かなと思っているところである。

 そういう考えを持っていたところ、もう一つ気になるニュースを聞いた。ASUSTek computerも6月1日、台北で開かれたComputex2010でタブレットPC「eee Tablet」を発表した。しかしこれも日本での発売は未定のため、当面のところ、英語、ドイツ語、中国語のみに対応させるとしている。

○世界地図から続々消える言語

 世界には現在、およそ6500の言語があると言われているが、2001年からの30年で3000の言語が消え、21世紀中には90%が消滅して300程度の言語しか残らないのだろうと、文化人類学者の福井勝義氏は警告している(東京新聞2001年2月4日付朝刊大図解「世界の言語地図」)。その原因の多くは、19世紀からの国民国家による中央集権的な教育制度とマスメディアの普及によって、言語の統一化が行われたことであり、地域の独自性や民族性が失われつつある。文字を持たない言語は、口承口伝で伝えていくしかないが、継承者が消えつつある。また、山一つ隔てれば別の言語というのは、各国の言葉にとって何も珍しいことではない。それは今日、世界的な共通言語として利用されつつある英語も例外でなく、ノルマンコンクェスト以前は古来ケルト語系統の言語を使っていたのだし、帝国主義以前は、国内における英語滅亡の危機すらあったのだ(世界中に普及して言ったのは帝国主義所以だが・・・)。

 2010年4月9日に亡くなった井上ひさしは、明治時代の言語政策をベースにした戯曲『國語元年』を書いており、1985年にはNHKによってドラマ化されている。この物語では、幕藩体制下で250の国に分かれていた日本を舞台に、富国強兵のために国語教育で言語を統一することを命ぜられた文部省の下級官吏・南郷清之輔(長州出身)が主人公だ。奥方と舅は薩摩出身であり、息子とともに4人で暮らしているが、この邸宅には、江戸山手、下町、山形、遠野出身の使用人に加え、言葉の相談役として名古屋の書生、公家が加わり、そこに会津弁をしゃべる元士族の泥棒が飛び込んでくるという舞台で、その中でお国言葉を無理に変えようとするところに問題が続出して、七転八倒する様子が面白い。

 日本はその後、この戯曲がベースとしたシナリオどおりではないが、近代化の過程の中で初等教育を整備して言語統一を行った。その中で、各地方の独自性や、アイヌ、琉球の言葉などの多様性が失われていくきっかけにもなっている。また、その後わずか30年後には、台湾や朝鮮半島、太平洋の諸島などで、日本語への言語同化政策を行っていくことになるのである。

 アルフォンス・ドーデは新聞小説「最後の授業」の中で、普仏戦争(1870~71年)終結のフランクフルト条約でアルザス・ロレーヌ地方の割譲により、母国語を失った人々の悲しみをフランツという少年を通じて描き出している。フランス語嫌いであった少年が、いやいやながらに登校すると、フランス語の最後の授業日であり、翌日からはドイツ語による教育が行われることを知った。厳しかったアメル先生もやさしく迎えてくれてフランス語の授業が始まり、「フランス語は世界中で一番美しい、ある民族が奴隷になっても国語を持っている限りは牢獄の中でカギを持っているようなものだ」と言い、授業の最後に「フランス万歳」と言って終わるというストーリーである。このストーリーは1927年から1986年まで日本の国語教科書に頻繁に使われていた教材である(府川源一郎『消えた「最後の授業」』大修館書店)。

 問題は、戦前は、言葉に対する愛着や愛国心を教える小中学校の国語教材として使われていたことである。つまり、自国民に言葉を失うことの悲しみを通じて言葉の大切さを教えながら、日本が他国に対してやっていたことのパラドックスが存在するのである。戦後は、朝鮮戦争を景気に復古的な動きや国語愛として復活したが、1986年には消えた(小学生当時、教わった記憶がある)。

○マスメディアが消した方言

 言語の多様性は何も国家だけが押しつぶすのではなくて、マスメディアもその一因を担う。つまり、音声メディアでもある映画、放送(ラジオやテレビ)などは、音声を記録したり、母国語によるコミュニケーションを行ったりするために、アジアやアフリカではラジオ放送が重用されるが、その一方で、その普及により方言を押しつぶしてしまう恐れもある。山一つ越えると、意味や言い方が異なるという時代ではなくなってきたが、逆に言えば、言語の多様性は押しつぶされてくる恐れがある。装置産業であるマスメディアを利用するということは、ある意味である程度の規模を持たなければならない。そのために、少数言語や方言などには対応しきれないかもしれない。

 パソコンやネットの普及は肌理の細かいところへの言語対応ができるはずである。ところが、冒頭に挙げたように普及すると見込まれている電子デバイスが画一化されてくると、ますます言語の滅亡に拍車がかかるのではないかとすら思われてならない。それは、普及できなかった電子デバイスの規格が葬り去られるだけでなく、そこに集約された言語の背後にある多数の採用されなかった言語も抹殺されることを意味するのではなかろうか。日本語も例外ではない。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理・法制

2010年7月19日月曜日

「みなさまのNHK」の表現の自由とは?

 NHKは7月6日、この夏の名古屋場所の中継中止を決めた。1928年のラジオ放送開始、1953年のテレビ放送開始以来、一貫して続いてきた生中継(戦時中は一時録音中継)を初めて全面的に中止したことになる。中継中止に至る経緯について同日、福地茂雄NHK会長が会見で答え、暴力団関係者との付き合いや野球賭博などの日本相撲協会の不祥事に対する改革の遅れや、中継中止を強く求める視聴者の意見などを「総合的かつ慎重に検討して」決定したという。

 NHKに寄せられた視聴者の意見(6月14日~7月5日)約12800件のうち、68%が放送中止を求めるものであったという(朝日新聞7月7日付朝刊)。その後、中止決定が伝えられると、1200件の意見のうち、中継を求めるものが500件で、中継すべきでない200件を上回ったという(東京新聞7月7日付夕刊)。
 これはNHKとしても判断ミスによる受信料支払い拒否を回避したいという見方もあるが、それはともかくとしても、中継中止に至る判断自体は正しいものなのか。

○視聴者の意向を隠れ蓑にしていないか?

 視聴者の民意に沿ったといえば聞こえが良いが、NHKは報道機関であり、表現の自由の行使者である。放送法1条の2は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」としているし、同3条の1は「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」と規定しており、表現の自由を大事にした上で、他からの干渉を受けることについて慎重でなければならない。

 もちろん、視聴者の意向を全く無視しろということではないが、普段から表現の自由、編成の自由を口にしているにもかかわらず、こういうときになぜこれらを極めて簡単に放棄し、後ろ向きに自主規制してしまうのか。単なる再放送の要望等に応えるならば別だが、仮に、視聴者の意向によって放送内容を決めるならば、声の大きいものによって言論・表現の自由がゆがめられている恐れがあるとは言えないのだろうか。

 その一方で、まったく逆に視聴者の意向があるにもかかわらず無視した場合もある。1993年のムスタン問題で川口幹夫会長(当時)が国会で謝罪した際もそうだが、2004年9月9日、元チーフプロデューサーの番組制作費用着服問題などNHK自体の不祥事を問われ、海老沢勝二会長(当時)の参考人招致を、「編集権の問題」として報道しなかったことがある(東京新聞2004年9月7日)。このことについては、同年12月19日に放送された特別番組に対する27,000件の視聴者の意見があった中で、中継をしなかったことに対する批判も相当程度あったとされる(東京新聞2004年12月20日付朝刊)。

 つまり、「みなさまのNHK」として、視聴者の意向を錦の御旗にして、あるいは隠れ蓑にして、放送内容についての面倒な部分を都合よく回避した詭弁と言えるのではないか。

○視聴者の意見の数は正当なのか

 もうひとつの問題は、寄せられた視聴者の意見が放送中止を求めるものが多かったからだというが、科学的根拠に欠ける発言である。統計はしばしば割合だけが大きく扱われることがあるが、本来ならば方法論の検証がなされなければならないし、その結果については考慮すべき誤差を念頭に置かなければならないことである。

 冒頭に示した通り、約7割が放送中止を求めたというが、あくまでも積極的に意見を言ってきた中での範囲にとどまる。また、この中には同一人物による複数回の意見をどのように考慮したのかわからないし、相当数のダブルカウントが考えられる。一方で、数多くのサイレントマジョリティーがどのように考えていたのかはここからは分からない。だからこそ、母数は異なるものの、中継中止が決められるや否や中継反対よりも中継を望む声の方が多くなるのである。

 NHKが視聴者の意向を大事にするというならば、緊急の世論調査をなぜ実施しなかったのか。

 NHKは、放送法9条1の3で「放送及びその受信の進歩発達に必要な調査研究」を業務として行うことになっており、同34条により総務大臣はこれをNHKに対して命ずることができるとしている。これらの規定に基づいて、NHKには放送文化研究所と放送技術研究所が設けられている。前者の放送文化研究所は「豊かな放送文化を創造する」ために設立されており、放送についての全国個人視聴率調査、全国接触者率調査、放送評価調査 放送意向調査、国民生活時間調査や、選挙の世論調査などが行われている。

 面接調査などでは緊急の事案への対応ができないかもしれないが、内閣の支持率調査や選挙の投票動向の調査は2~3日程度の電話調査が行われて、それが速報される。もちろん、電話調査の問題点(固定電話に限られることで年齢や社会階層による偏りが生じることや在宅率の問題、本人特定ができるかどうかなど)はあるものの、一定程度の科学的なデータは得られるはずである。視聴者の意向を本当に大切にしたいならば、NHK放送文化研究所が緊急調査を実施して、それを判断材料にしても良かったはずである。

○アウトレットはいくらでもあるが・・・

 1993年のムスタン事件の時点では、NHKが中継しなければ新聞に頼るほかなかったかもしれない。しかし、2004年のNHK不祥事での国会中継は、NHKが放送しなくても、朝日ニュースターやMXTV、国会TVなどで伝えられたほか、国会自体のストリーミング(衆議院TV、参議院インターネット審議中継)がある。

 また、今回、日本相撲協会はホームページ(http://www.sumo.or.jp/)上でカメラ一台を使ったストリーミング中継を実施している。一台のカメラでの撮影なので、少し見慣れない映像になっているが、それでも現場の雰囲気を知るには十分だと言える。総アクセス数は非公表(同時アクセス9000件)であるものの、7月12日には日本相撲協会のホームページに、通常の10倍近いアクセスがあったという(東京新聞2010年7月13日朝刊)。つまり、放送を中止したからといっても、アウトレット(出口)はいくらでも作れるのである。

 一方で、NHKは一定程度の相撲ファンのために、30分のダイジェスト版を放送しているが、なぜ生中継がダメで、ダイジェストならばよいのか。

 今回の相撲協会の不祥事の発端の一つは、やくざや暴力団関係者との関与である。

 2009年の名古屋場所や九州場所などで、土俵から数列目の「維持員席(一定以上の寄付をした個人・法人、後援団体に配布される席)」が暴力団関係者に譲渡されていた。これらの席に着いていた関係者らがNHKのテレビに映ることで、刑務所に服役中の組関係者らを勇気づけるのではないかという見方が捜査関係者の間にあるという(毎日新聞2010年1月26日付夕刊、5月26日付朝刊)。つまり、NHKテレビの生中継が暴力団関係者へのメッセンジャーになっていたのだという。

 もし、暴力団関係者が映っているのが問題だとすれば、なぜラジオはいけないのか、また、ダイジェストはそれを徹底的にチェックした上での放送となっているとでも言いたいのであろうか。あるいは逆に、日本相撲協会のストリーミングはこれを解決したとでも言いたいのだろうか。

 本来ならば、NHKが放送中止の判断をするのではなくて、日本相撲協会が名古屋場所を中止すべきだったのである。日本相撲協会は、名古屋場所の実施にあたり、「維持員席」の身分証明を求めたり、監視カメラを設置したりしたというが、そういうことによって迷惑をこうむるのは監視の対象となり、手間がかかる一般のファンである。暴力団等の反社会的勢力との関係を本当に断ちたいのならば、中継中止されたことに対してストリーミングで解決するというのではなく、ファンの信頼を勝ち取るように再出発を真剣に検討すべきなのである。

 一番の問題は日本相撲協会の対応であるが、言論機関としての表現の自由、報道の自由を簡単に放棄してしまったNHKも、相撲界の再生を妨げる罪作りな存在になってしまったのではなかろうか。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

帰国後考えた、コネクタブルな世界

 友達の結婚式があるということで、3年ぶりにハワイを訪れた。
 前回は、パートナー企業の営業部長がハワイ島で結婚するというので、行ったのが最後だった。その前は、さらにさかのぼる事3年、親友の結婚式で、これはオアフ島に。その前は、2002年~2005年頃に西海岸に出張で行き来しており、帰りに、毎回オアフに寄って、放電して帰ってきた記憶がある。もう随分行っている計算だ。

 この流れの中でイーサーネットがはじめてホテルの部屋まで来たのが、4~5年前くらいのタイミングだった。それ以前は思い起こすと、データポート付きのIWATSUの電話機に、電話のジャックを挿して、AT&A系のISPのフリーダイアルに、「ピーヒャララ」で繋いでメールを取っていたことを思い出した。随分とインフラも整備されてきたわけだ。

 今回は、知人の結婚式に夏休みをプラスして、ハワイ島とオアフ島の両方に合わせて8日ほど滞在した。もはや、ホテルの中は、イーサーネットは当然で、WiFiもいたるところで拾える。当然といえば当然である。オアフ島に至っては、ビーチや街中でも公衆WiFiが飛んでいて、まぁ、どこでもコネクタブルな状態であった。

 しかし、である。
 ホテルのインターネットが「有料」だった。いまどき、「え?」という感じ。格安ホテルなら、わからなくもないが、ハイクラスのホテルである。しかも、24時間で20ドル程度も取る。いまどき、情報を取るのにそんな金を払う人がどこに居るのだろうか、と。しかし、繋がないと困る。8日間も東京を空けるわけだ。メールくらいちゃんとやっとかないと、仕事が滞る。仕方なく、僕からすれば、その途方も無い料金を支払うことにした。ハワイ島はしょうがない、と思いつつ、オアフ島のど真ん中のハイクラスのホテルへ場所を移す。もちろん、部屋にはイーサーネット、そこらじゅうに、WiFiだ。しかし、ホテルのイーサーネットは、やはり料金を求めてくる。それも、前述の料金と同じくらいの値段である。おいおい、またか。ここまでくると、ブロードバンド大国の日本人としては、頭に血が上ってくるため、パソコンの背中を窓に向け、ビーチの公衆WiFiを拾おうとする。これが上手く行った。感度は「非常に強い」を指している。しかし、である。やたらと遅い。仕様に耐えない。イラッ。

 ところで、ハワイといえば、「ALOHAnet」である。アロハネットワークは、1970年前後に、ハワイ大学のノーマン・アブラムソン氏などが作り出したコンピュータネットワークである。後の1972年には、かの、ARPANETとも繋がるネットワークで、パケット通信の歴史においては、語らずにはいられない、イーサーネットに強い影響を与えた技術である。その「ALOHAnet」であるが、今日のWiFiと技術的に非常に近いといわれている。例えば、WiFiでよく使われる802.11bだが、これはごく簡単に言ってしまえば、ユーザーが増えれば増えるだけスループットが劇的に低下するのである。従って、実は、WiFiは「公衆」には向かないのである。そこに来て、iPhone、iPadブーム。海外からの旅行客は3Gなんぞは使いたがらない。(日本は、7/21から海外の3Gも定額になるようだが・・・by @masason)。昼間はビーチで右を見ても左を見ても、iPhoneやラップトップだらけだ。この時間帯は、さすがにスループットが遅い。そして夜。部屋に帰った人たちは、ワインを片手に、公衆WiFiに繋いでいるのだろう。夜は夜で遅い。それもすべて、ホテルのネットが有料だからじゃないのか?たまに、スピードが出るときは、急いで仕事をして、急いで、tweetする。そんなストレスフルなネット環境が続いたのであった。

 ハワイは島である、西海岸からだって、ジェットで5時間はかかる。海底ケーブルの敷設、そして、島と島の間の通信網の整備など、インフラに資金が掛かるのは、よくよく考えれば理解できる。従って、ホテルのインターネットが有料なのも理解しなければならないのかもしれない。ただ、そこは観光で成り立っている州。これからの時代、インフラ整備に是非頑張ってもらいたいと思った次第だ。

 ところで、6年程前にギリシアへ行ったとき、メインランドのホテルのネットも無料、離島(ミコノス島だった)などは、WiFiが飛んでいて、人も少ないこともあってか、快適なネットライフを過ごすことができた。同じく離島のspgのホテルだったが、こちらはインフラ事情が違ったのだろうか。さらに、ニューヨーク⇔東京間で、いくつかの航空会社が試験的に提供していた、インターネットサービスは目から鱗だった。私の記憶に間違えがなければ、すでに全航空会社が採算性の問題から、このサービスから撤退しているが。なにせ、電源も供給され、パソコンがブロードバンドでネットに繋がる。しかも、その時、私はヘッドセットも持ち合わせていたから、Skypeで無料で電話だってできた。手元についている、クレジットカードを通す飛行機の電話機では、相当な料金が取られる。多分、このサービスはその内、復活するだろうから、日本でいう、アジルフォンのようなソフトフォンのインターネット電話サービスを利用していれば、そこに電話だってかかってくるだろうし、会社からの転送電話もreachableだ。しかも、飛行中に、だ。まさに、飛ぶオフィス。さながら、エアフォース・ワン、といったところだろうか。

 日本も、新幹線のN700系でサービスがスタートしている。私は出張が豊橋止まりなので、N700系には乗れないのだが、このサービスも広がるだろう。JRや地下鉄も先月くらいから、非公式に、地下でも電波が通じる箇所を増やしはじめている。

 さて、とめどもなく書いてきたコネクタブルな世界だが、もう、そこまで来ている。しかし、である。WiFiは、広い領域や多くのユーザーをカバーするには、難しい技術である。一方で、携帯電話会社が持っている電波の帯域というのは、データ通信においても、広域で多くのユーザーをカバーできる。商業的には、いわゆる「無線LAN」サービスよりも、携帯電話会社系のインターネットサービスの方が伸びる可能性が高いと感じるのである。

 帰国の日、ホノルル空港で人生で初のオーバー・ウェイトによる、50ドルのペナルティーチャージを受けた。27kgまで、とされるところを、30.78kgで、ペナルティ。厳しすぎやしませんか?その根拠を調べたが、ネット上でなかなかみつからない。どなたかご存知の方がいらっしゃったら、コメントをいただきたい。たった、3-4キロで50ドルって高くないですか?あるいは、その3-4キロが命取りなんです、みたいなコメント嬉しいです。どこを見ても、なんで、27kgなのか、なんで、50ドルなのかが書いていなかったので。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年6月7日月曜日

地デジ化体験記(その3)

○これは「集団疎開」の再来か?

 「地デジ化」の奮闘について書くのは3回目だが、いろいろと考えてみると、これは戦時中などに行われた「集団疎開」の再来なのかと思えてくる節があってならない。

 「疎開」は、戦争の惨禍からまぬかせるために主に児童・生徒などの非戦闘員を避難させたり、防空目的や軍事作戦行動上の理由で建物を移設、解体したりすることだが、地デジ化の推進を見ていると、放送局も受信者もアナログ放送帯域からデジタル帯域に強制的に集団疎開させられているように見えてならならないのである。

 それが明確な跡地利用の方針もないままに、この「集団疎開」が強制的に粛々と行われていることも問題だが、より根深いのは、その決定がきわめて「民主的」手続きで行われたことである。つまり、2011年までに地上アナログ放送を廃止し、「特定周波数変更対策」と名付けられたデジタル放送完全移行を決めたのは、われわれが選出した代表で構成する国会であり、さしたる大きな議論もなく2001年6月11日に電波法が改正されたのである。そもそも、電波のひっ迫があり、「電波の適正な利用の確保を図るため」として改正しながら、その明確な需要自体が漠然としていたのである(その需要すら当時はあったのか疑わしい)。また、普段から読者・視聴者の利益のためと言っている放送事業者や放送事業者に出資している新聞においても、極めて国策遂行に順応的な論調であった(今も、地デジ推進に関してそうだが)ことも問題ではなかろうか。

 たしかに、アナログからデジタルへ移行するのは「時代の潮流」だとして理解できたとしても、衛星、地上、インターネット(光・WiFi)などを総合的に勘案して、視聴者や利用者が使いやすい次世代の規格を作り出したとは言えないのである。どちらかというと、既存の事業者の利益を優先したと思えるところがあってならない。いまさらこんなことを言っても仕方がないと思うかもしれないが、当時から問題提起してきた私としては、地デジ化を実体験してみていろいろと不具合も経験したので、「使い方は後から考えるから、とりあえず退け!!」というやり方に、戦時中の集団疎開を思い出させられてやはり釈然としない。

○跡地利用をめぐる争い

 KDDIが2010年6月3日、次世代向けの放送サービス提供を目的に「メディアフロー放送サービス企画」(東京都港区六本木、資本金5000万円)として、同社の出資比率82%で、テレビ朝日(同10%)、スペースシャワーネットワーク、ADK、電通、博報堂(以上4社計8%)との間に設立したことを発表した。一方、NTTドコモはすでに2008年12月14日、フジテレビ、ニッポン放送、スカパーJSAT、伊藤忠と均等出資で「マルチメディア放送企画LLC合同会社」(東京都港区台場・資本金1億8000万円)を設立している。

 これらの会社はアナログ放送終了後の電波帯を利用し、携帯電話利用を前提としたモバイル・マルチメディア放送の利用を目的として設立されたもので、前者が米国・Qualcomm社のMediaFlo(TM)を利用したサービスに対して、後者は、現在の日本のデジタル放送方式をベースとしたISDB-Tmmの利用を提唱している。

 今のところ、次世代放送サービスについては、一社が選出される見通しとされており(「東京新聞」2010年6月4日付朝刊)、今後の選定作業を通じて、テレビ朝日・KDDI vsフジテレビ・NTTドコモの電波割当争いを前提とした規格争いが行われることになる。
携帯電話のデジタル化は、それぞれの事業者に割り当てられていた電波帯域を再構成するために、事業者の負担において(最終的には利用者の利用料金に上乗せされているが・・・)、送受信機双方の交換が行われ、利用者にさしたる負担もなく行われたが、今回のテレビデジタル化については、ほぼ全額が新しい産業創成と新サービス提供のために、強制的に集団疎開させられ視聴者負担で移動させられ、新たな跡地利用が行われるのである。
それも、既存の放送事業者の出資を得てである。つまり、広告収入の激減により、事業的な行き詰まりを見せてきた地上波放送事業者の新たな出資先を、視聴者の負担で作り出しているのではないかと疑いたくもなるのである。

○エコポイント制度は「エゴ」なのか?

 2011年7月というデッドラインが決まっており、地上デジタル受信機の普及を目指したものの、受信機の普及はこれまで非常に低迷してきた。環境省、経済産業省、総務省が共同で「エコポイント」制度を実施して、地デジテレビへの買い替えに役立っている面もあるが、そもそも、この制度自体が「エコ」を標榜していることについて主に二つの問題がある。一つは、販売増による電力消費を考えていないこと、もうひとつは、エコ製品への代替が必要条件でないことである。前者では、以前よりも台数を増していくことに歯止めがない。仮にブラウン管から液晶テレビに買い替えて、40%程度消費電力が抑えられたとしても、2台買えば、以前の消費電力を超えてしまう。後者については、これまで使っている製品を確実に回収しなければならないし、以前に使っている製品よりも消費電力が少なくならなくては意味がない。ところが、大画面テレビを買う場合、以前に使っていたブラウン管テレビよりも、消費電力が大きく増加することがある。こうした点に歯止めがないのは問題である。むしろ、景気刺激策として「エコ」が産業の「エゴ」として利用されているとしか言いようがない。

○地デジに対するささやかな反抗

 最近、2011年7月24日で「テレビにさようなら」と言ってはばからない人が、私の身の回りに増えてきた。理由を聞くと、テレビがそもそも面白くないし、テレビを買い替えるだけの金もないからだという。とくに、大学生はテレビをほとんど見ていない。テレビっ子の私としては、ちょっと釈然としないところもあるが、そもそも私自身、リアルタイムでテレビを見ることが少なくなってきただけに、項を改めて「つぶやいて」みたい。


主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2010年5月31日月曜日

地デジ化体験記(その2)

 地デジ化体験記から考えたことについて今回も二つほど問題点を指摘したい。

 前回、放送衛星を利用して難視聴地域への暫定送信を行うホワイトエリアの地域に該当したと書いた。これは総務省の補助(国税)と放送事業者(NHK・民放)の負担により、社団法人デジタル放送推進協会(Dpa)が実施主体となって2010年3月から2015年3月までの5年間の期限付きで実施される放送で、東京地区で放送されているものと同内容の番組(CMを含む)が全国統一で供給される(ただし、期限内であっても、当該地区で地上デジタル放送が視聴できるようになれば視聴できなくなる)。

 日本の地上波民間放送事業は、原則、県域をサービスエリアとして免許が行われている(関東地区、関西地区、徳島、香川・岡山地区、鳥取・島根地区などを除く)。後発局ほど少なくなる傾向にはあるが、各々が独立した会社として自社制作番組を制作、放送することで、地域の言論の多様性を確保してきた。日本テレビ放送網株式会社が当初、アメリカを中心とした国際通信網の一部を構成し、日本国内のネットワークとして計画されていたものの、言論性確保のために、関東地域の一局とされた(その後、ニュースや番組供給等において「ネットワーク協定」を結んだことにより、実質的に全国のキー局の位置づけを獲得している)。その後、作られた集中排除原則ともあいまって、副次的に、地域の商圏を維持できた。民放局にとっては、放送エリア内での商圏を対象とした広告放送が可能となり、よりきめ細かい広告需要にも応えることができてきたのである。そのため、デジタル化により放送衛星が民間放送にも拡大されるようになった時に、地域の商圏確保のために、地上波キー局による直接使用を認めず、経営上は厳しいにもかかわらず別会社が作られたという経緯がある。ところが、星から電波を落とすことで、限定的とはいえ、実質的には原則を崩してしまうことになる。地域の言論性確保をするならば、BS放送ではなく、CS放送(110度)により、地域ごとの放送再送信を実施すべきものではなかったかと思う。

 もう一つ、関東地区における「デジ・デジ」変換の問題である。2011年7月24日の完全デジタル化後に再度アンテナ調整が必要となる地区が発生する。それというのも、2011年を目指してUHFのアンテナを設置したとしても、2012年からは東京スカイツリーに電波中継施設が変わるからだ。これによる影響は大きく分けて二つのパターンが考えられるが、一つは東京中心部に位置し、東京タワーと東京スカイツリーの方向が大きく異なる個所、もう一つは、スカイツリーとの間に電波障害物が存在する可能性である。

 私の仕事場は、東京都の豊島区に存在するが、現在、地上デジタル放送は東京タワーから放送されているものを受信している。こちらも最近、地上デジタル用のアンテナを自らの手で設置したが、2012年には、南東方向に設置してあるアンテナをスカイツリーの存在する東方向に変えなければならない。それだけかと感じられるかもしれないが、2階建ての仕事場の東隣には8階建てのマンションが建っており、「ビル陰」で難視聴となることが想定される。もちろん、既存建設物による難視聴の場合には、放送局等の負担により受信設備等の調整、設置が行われるため、費用負担はないというが、難視聴でない場合には、個々の費用負担となる。2011年にアナログ波を止めて、一度デジタル化した上で、2012年に方向を変えさせるのは、二度の手間と費用負担になるではないか。

 2012年春の開業を目指して建設中の東京スカイツリーは、新たな観光名所としては人気を博しているが、電波塔としての誕生の経緯と施設は中途半端な面が否めない。新タワーの建設は2006年3月31日に押上・業平地区に最終決定したが、関東地区での地上デジタル放送は2003年12月1日に始まっている(もっとも当初は、電波調整のため東京タワーから1km程度の範囲でしかなかったが)し、そもそもNHK・民放の在京放送事業者が新タワー推進プロジェクトを作ったのが、それから地上デジタル放送開始から半月遅れること12月17日であった。また、地上デジタル放送への10年間での全面転換は2001年7月に決まっているのだから、放送送信用の新タワー建設が後手後手になった面がある。

 政策の掛け違いといえば、おしまいだが、それならば、少なくとも、スカイツリー開業後1年程度は、アナログ/デジタル(東京タワー)とデジタル(東京スカイツリー)のサイマル放送を行うべきではないか。
 そうでないならば、最近始まった「ラジコ」(IPサイマルラジオ協議会、Radiko.jp)のように、IPを利用した再送信という手もある。BS/CSよりも安価であるし、東京地区では通信サービスエリアが充実しているため、臨時の補完手段としては優れているのではないか。
「ラジコ」は、実証実験が関東と関西の両地区で8月までの予定で実施中のIPサイマルキャストで、IPによる受信制御設定がなされているため、商圏や著作権等の権利関係の管理・制御が容易である。

 この実証実験は、関東地区(東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県)では、TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送(以上AM)、ラジオNIKKEI(短波)、InterFM、エフエム東京、J-WAVE(以上FM)が、関西地区(大阪府、京都府、兵庫県、奈良県)では朝日放送、毎日放送、ラジオ大阪、FMCOCOLO、FM902、FM大阪がこれに参加している。

 これまで、若年層を含めて、ラジオ聴取率の低迷とそれに伴う広告収入の減少に悩んでいたが、電通が音頭をとって進めたこの実証実験により、ラジオに明るい光が差しつつある。本来、通信・放送の融合を言うならば、こうした受信対策に使ってもよいのではないかと思う。実は、BSを併用した難視聴対策や完全デジタル化のプロセスは正解といえるのか、非常に疑問に思うのである。

(つづく)

主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2010年4月30日金曜日

地デジ化体験記(その1)

 2011年7月24日に地上波テレビとBSテレビのアナログ放送が終了するということは、ほぼ周知の事実になりつつある。この原稿を書いている時点(2010年4月30日現在)であと450日に迫っているが、それにしても、本当にアナログ放送を終えてしまってよいのであろうか。わが家の地デジ化体験記を通して、いくつか問題点を考えてみたい。
 デジタル放送化は「国の方針」として決められており、その期限が先の期日とされているのは、これにさかのぼること10年前の2001年7月24日に電波法改正され、そこから起算して10年後ということにされたからだ。ただ、デジタル放送受信機の普及を考えてみるとそのスケジュールでよかったのかどうかいささか疑問が残る。つまり、2001年の電波法改正から

◇ そもそも、なぜデジタル放送が導入されるのか。

 社団法人デジタル放送推進協会のホームページ(www.dpa.or.jp)には、「アナログ放送には無い10の魅力」が説明されている。これによれば、①迫力の高画質!②ゴーストもなくクリア!③臨場感あふれる高音質!④録画もラクラク!EPG⑤これは便利!データ放送⑥楽しみ広がる双方向サービス⑦マルチ編成でスポーツ延長も最後まで!⑧高齢者・障害者にもやさしい字幕放送⑨ワンセグでいつでも情報キャッチ⑩デジタル化でチャンネルが増える!、というメリットが示されている。
 たしかに、デジタル放送の導入により、自然・気象条件等による送受信障害を回避・顕現したり、電波の交通整理が容易になったり、高機能・高画質・高音質といったメリットが挙げられる。また電気製品の需要を作り出すことにより、一定の経済的効果が見込まれる。
ところが、アナログ放送とデジタル放送とには技術的な互換性はなく、すべての送受信設備を更新しなければ受信できなくなってしまう。そのため、受信機の買い替えが必要となり、視聴者全体に大きな経済的な負担をかけることになる。また、現在使っている周波数帯(いわゆる「電波の空き地」)を空けた後の利用方針も明確ではない。

◇ 一部の電波が拾えない!!

 私の実家は、千葉県のほぼ中央部、九十九里浜から少し内陸に上がったところにある山武市(旧山武町)にある。地上デジタル放送のカバーエリアとしては、東京タワーからの送信範囲内ギリギリの地点だ。2009年8月にアンテナをDIYで設置してみたが、なかなかうまくいかない。遠距離用に作られたUHFアンテナ(20素子)にブースター(+33db)を接続してみたところ、おおむね受信感度はよかったものの、フジテレビの受信レベルが極端に低く、ブラックアウト状態のままだ。
 そこで、「デジサポ」(総務省デジタル放送受信者支援センター=http://www.digisuppo.jp/)に電話をしてみたところ、オペレーターは「電気店に依頼して調整を試みてください」という一点張りであった。しかし、それならばDIYをやる意味はないし、素人の設置したアンテナ工事を初めからやり直しされかねず、二重の投資になってしまう恐れがある。そこで、もう少し駄々をこねると、先方もいやいやながら技術的なアドバイスのできる人物につなぎ、「アンテナの高さ調整をしてみてください」というアドバイスまでは得られた。結局、その時点ではいくつか調整を試みたものの、やはりフジテレビだけが感度不足でブラックアウトのままだった。
 そこで、今度はUHFアンテナ(30素子)+ブースター(+40db)の組み合わせでトライしてみて、ようやく安定した受信ができるようになったが、それでもフジテレビの受信感度が低く、やはり不安定でブロックノイズの恐れがある。(その後、どういう原因かは分からないが先に設置したアンテナの方も感度が上がり、自然に受信できるようにはなった)。
 このように悪戦苦闘していたところ、「地デジ難視対策衛星放送対象リスト(ホワイトリスト)」(第二版)の対象地区になったということが4月16日になって総務省からアナウンスされた。

http://www.soumu.go.jp/main_content/000062797.pdf

 これは、放送衛星を利用して難視聴地域に向けて暫定的に放送される仕組みだが、これをめぐってもいくつか不可解なことがあったり、対応に疑問を感じたりしたので、それについては、項を改めて書きこみたい。

(つづく)

主任研究員(Y) 専門:メディア倫理法制

2010年3月25日木曜日

言論の自由

 大きなタイトルを掲げてしまった。しかし無視しては通れない現象が起きているので、忘れないうちにちょっと触れておきたいと思う。

 今月、奇妙なことがあった。一部ネットのメディアの中では取り上げられた事ではあるが、私は体験的にこのことに接した。アップル社のことである。

 私の知人が、グラビアアイドルのCP(コンテンツ・プロバイダー)をやっている。グラビアアイドルを発掘し、メディアに露出させることで、そのキャラクターの価値を上げ、商売にしているわけである。これ自体は特に変わったことでもなんでもない。昔はアイドルの露出といえば、雑誌、テレビなどのメディアだったわけだが、最近はインターネットの出現で多様化してきている。つまり、ウェブメディアや携帯なども、その露出先として一般化している。その流れにあって、スマートフォン時代がやってきた。iPhone、Google携帯(Android OS搭載携帯)などがその先駆的存在だろう。ちなみに、来月末には、eBookとして、iPadも日本にやってくる。これらスマートフォンの特徴は、それぞれのスマートフォンが、アプリケーションの有料・無料ダウンロードをさせる、プラットフォームを持っているということ。例えば、iPhoneで言えば、AppStoreである。テレビCMでもおなじみだが、何万というアプリケーションが有料・無料問わず、このAppStoreというプラットフォームに集結しており、iPhoneユーザーは自由にダウンロードして、そのアプリケーションを便利に使ったり、楽しんだりするわけだ。同じことが、Google携帯では、アンドロイド・マーケットで実現している。

 さて、話を元にもどそう。そのグラビア・アイドルのCP事業をやっている私の知人は、グラビアアイドルの露出先として、携帯よりも画面が大きく、さまざまな動きが実現できる、iPhoneを選んだ。そして、アプリケーションの開発会社と組んで、iPhoneアプリとして、グラビアアイドルの写真集を作り上げ、AppSotreに登録すべく申請をした。AppStoreは申請制となっており、審査を経ないと、AppSotreに自分のアプリが登録できない。彼のグラビアアイドルの写真集アプリは無事に審査を通過し、晴れて、AppSotreに登録された。
 すかさず、そのアイドルのコアなファン達は、こぞってこのアプリをダウンロードして自分のiPhoneにインストールし、なかなか快調な滑り出しだった。

 しかし、である。

 今月初旬、アップル社は強権を発動した。つまり、何の理由も無しに、「肌の露出の多そうな」こういった類のアプリをすべて、AppStoreから削除したのである。削除された中には、名の知れていないアイドルのアプリから、超有名アイドルのアプリまで、さまざまであった。アップル社は今のところ、公式に、「なぜ、削除したか」を発表していない。

 ここからは憶測になるが、AppStoreが、肌の露出が多いアプリの温床になることを怖れたアップル社が、とりあえず、一掃したと考えられる。あるいは、アップル社の極めて強い、CI(コーポレート・アイデンティティ)を守るために、それに反するものは、すべて削除したとも考えられる。しかし真相はわからない。いくつもの、CPがこれに猛抗議をしたが、なしのつぶて、であった。噂では、そういったアプリ用のカテゴリーが別途用意される、という話も耳にするのだが、オフィシャルな情報ではない。

 さて、問題はどこにあるのか?

 昔から、水着のアイドルは、「表現の自由」の範疇にあった。確かに過激になれば、その範疇を越えて「議論」されてきたわけだが、それでも、議論の余地があった。なぜなら、「表現の自由」という、民主主義社会においては極めて重要な大義があるからである。
 この問題はプラットフォームという、いわゆる、マーケットを作り出しておきながら、そこに「言論の自由」を認めなかった、あるいは、一義的に認めなかったアップルの強権である。

 今月の後半は、Googleの中国撤退が大きなニュースになったが、Googleのような大企業は、公共的な立場を担う。従って、民主主義の国の大切な憲法や、あるいは、言論の自由のような根本的な権利は、しっかりと守ってこその大企業なのである。

 しかし、残念ながら、アップル社は、「全削除」を「理由無し」に行なった。しかも、事前に審査をして、一度はGOを出したにも関わらずである。

 このことに関して、30年以上大手出版社でテクノロジーの編集者を務めてきた方と話を深めた。曰く、「アップルの行動は、まったくもって許しがたく、インターネットの精神を無視した行為だ」と。私も同様に思う。

 いまのところ、アンドロイド・マーケットの方では、同じ現象は起きていない。そもそも、Android OSを開発したGoogleは、副社長にインターネットの父を言われる、ヴィント・サーフ氏なども迎えており、インターネットの「精神」に対し、多大なリスペクトをしている。だからかもしれない。

 スティーブ・ジョブズは、偉人であり、尊敬すべき人物である。しかし、今回のこの出来事には、強い違和感を覚えざるを得ない。iPhoneで先駆者になり、AppStoreでプラットフォーム事業に一定の成功を見せ、トップを失踪しているアップル社にとって、今回のこの出来事は、後に言い訳のしようがない痛手にならないことを祈るばかりである。

「言論の自由」

 言うわ安し行なうは難し、かもしれないが、アップル社ほど全世界で尊敬されるべき企業は、この権利の意味をしっかり勉強して実行してしかるべきだと思うのである。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年2月10日水曜日

視聴率の不思議

 電通という会社があるが、この会社の子会社のビデオリサーチ社が視聴率をほぼ独占的に発表しているわけで、大いに、違和感がある。視聴率によって広告料は変わるわけで、穿った見方をすれば、電通はいくらだって、自分の都合で視聴率を変えられる。無論、ビデオ社の倫理観は崇高なもので、そんなことは無いと信じるが、しかし、なんでこんな変な状況を長年放っておいたのだろうか。一方の博報堂は、文句の一つでも言ったことがあるのだろうか?あるいは、公引は何も思わなかったのか?だとすれば、まったくのエポケーであるし、ギョーカイの「競争をしないで丸儲け」構造を守るための、強い縄張りを感ずる。
 しかし、いわゆる「通放融合」の時代にあって、状況は徐々に変わり始めてきている。例えば、通信の巨人であるNTTが、光ファイバーでテレビを伝達するサービスを行なっているが、彼らのサービスを使って、テレビを見ている視聴者がどれくらいかを、NTTが独自に測定するのは朝飯前である。もっとインターネットベンチャーに話を振って考えると、なお、おもしろくなる。世の中に出回っている、地デジ対応テレビには、インターネットへアップリンクするソケットが備わっている。某大手メーカーの方によれば、そのメーカーのインターネットに接続できる、いわゆる薄型地デジ対応テレビの総出荷数の内、約30%もの世帯が、テレビをインターネットにつないでいるというデータもあるようである。
 となると、話は変わってくる。インターネット上の「視聴率測定サーバー」があるとして、そこに入っているクローラー(ロボット)が、インターネット上にあるテレビをクロールしてまわり、今、この瞬間、どのテレビでどの番組が見られているかを測定することだって理論的には考えられる。しかしこの話をエンジニアと詰めているといくつかのハードルがある。そもそも、視聴者のパーミッション無しに、ずけずけとお茶の間のテレビまでクローラーがクロールして勝手に情報を取って良いのか、という「情報社会論」的な議論を横においておいたとしても、自宅の中のルーターの下のネットワークに繋がったテレビに勝手に、インターネット上のサーバーが触りに行き、情報を取得するのは、「まず」不可能である。しかし、無論、このようなことを考えたベンチャー企業がメーカーと組んで、そのテレビメーカーが、テレビ側(のファームウェアに)に何らかの信号をインターネットに向けて発信する仕組みを埋め込んで出荷すれば、インターネット上のサーバーで情報を取得することが可能になる。こうなってくると、インターネットのベンチャー企業が、視聴率を、インターネットの慣例に従って、無料で公開する、なんていう日が来てもおかしくない。となると、電通の子会社のビデオ社は出る幕がなくなる。さらに、もって言えば、それができるなら、各テレビ局が独自に「視聴率測定サーバー」をたてて、自分の視聴率を自分で取得することすらできるようになる。後は、その視聴率に対する統計的裏づけと「権威付け」の問題だけになるのである。
 こんなことを考えながら特許庁のホームページで視聴率に関する公開特許を調べてみると、ざっと500件を越えるヒットがあった。まぁ、どの人もそんなことを考えているわけで、「技術的ブレークスルー」、「メーカーとのコラボレート」そして、「通放融合の波」を上手く乗りこなせるプレーヤーが、この戦いに勝てそうである。ひょっとすると、また、その勝者がビデオ社だったりするかもしれないが、個人的にそれだけは、勘弁、である。

代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2010年1月4日月曜日

故人の個人情報とSNSの今後

あけましておめでとうございます。
結局昨年は12月を飛ばしてしまった。師走というのは、どうも忙しくなる。

ところで、講談社が『COURRiER Japon』という月刊誌を発行している。編集長の古賀さんが、フランス留学時に本家本元の刺激を受けて、日本で創刊した、まったく新しい形の月刊誌である。その11月号に気になる小さな囲み記事があった。曰く、『あんたが死んだら、メールやSNSの個人情報はどうなる?』(p.118)と題された、米国『TIME』誌からの記事である。
 確かに、どうなるのだろうか。
記事によれば、娘を事故で亡くした親御さんが彼女が生前使っていたSNS、フェースブックにログインして、彼女の生前の記録、つまり、書き込みや意見、友達のつながりや写真を、娘の「遺品」と感じたようである。米国のフェースブックは、どうやらユーザーの死後、3ヶ月で内容が自動削除されてしまうようで(どうやって、ユーザーが故人になったのかを知るのかがわからないが・・・)、親御さんは3ヶ月間ですべてのデータをダウンロードしたようである。
 デジタルネイティブ世代が急速に増えている昨今、こういった事例は後を絶たない。記事は裁判になるケースもあるとつづける。つまり論点はこうである。例え親と子の関係であっても、プライバシーは尊重されるべきである、といった類のものである。しかし、私が考える限り、この手の話は、その場しのぎの法的な判断には至るかもしれないが、決して確固とした線引きができないのも事実であろう。
 すなわち、法的な側面だけで話しをするべき問題でないからなのである。別に、この現象はネットに限った特殊なことではなく、子供が「絶対にみちゃダメ」といっていた宝箱を覗く権利が親にあるのかどうか、といった、極めて、日常的で個別的なできごとと変わらないのである。しかし、記事も指摘しているとおり、それと違うのは、間に「業者」が挟まっていることである。SNS業者は今後、ユーザーに故人が増えることに対して、あるいは故人の親族(どこまでを親族とするのかも含めて)からログインアカウント開示の請求があった場合、どうやった振る舞いをするのか、検討をしなくてはならない。つまり、自主的に一定のガイドラインをつくる必要に迫られるのは必至である。すでに、各大手業者はこれを行ないはじめているが、ガイドラインを使ったからといって解決する問題でもない。
 先日私もまったく同じ状況に出会った。ある恩師のSNSから「私は、○○の息子の△△です。実は父が一昨日、闘病の末亡くなりました。私は、このことを、父がこのSNSで繋がっていた皆様に知っていただきたく、メッセージを書いています・・・」というものだ。続いて、お通夜と葬儀の日時も付け加えられていた。私は遠方に出張だったため弔電を送るくらいしかできなかったが、多くの、その恩師の教え子はこのことがトリガーとなって、お通夜や葬儀へ行っている。果たしてこれは、息子が父親のプライバシーを侵したことになるのだろうか。私はまったくそう感じない。
 法的にどうであるかも大事である。そして、自主規制やガイドラインも重要であろう。しかし、「人が人としてどう感じるか」という一番大事な「基準」を逸脱して、判断が簡単な法やガイドラインに任せてはいけない気がするのは私だけであろうか。インターネットの一住人である、SNS業者は、今その考え方が問われている。

代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論