2011年3月27日日曜日

エピソード:ニコロとの思い出(3)

前回からの続き***


 僕は、そのスライドを見て、これが投資家とアントレプレナーのマッチングパーティであることを瞬時に理解した。しかし、東京で経験してきたそれとは雰囲気がまったく違う。何と言うか、非常に品がある。逆に言えば東京のそれが非常に品が無いといっていい。ニコロとはじめて会ったパーティも例外ではなかった。僕は、渋谷でニコロが「残念だね」と切り出したことを思い出し、合点がいった。そして、アントレプレナーの端くれとして、そこに居合わせたことを少し恥ずかしく思った。

 いつの間にか、マイクを握るニコロの言葉はイタリア語から英語に変わっていた。会場の客も、皆、しっかりと英語を理解しているようだったし、僕にとってはありがたかった。不意に、ニコロが言った。

「今日は、皆さんにご紹介したい人が、わざわざ日本から来ています。」

 そう言って、ニコロは、部屋の端っこの階段にもたれ掛かっていた僕を指差して、壇上から「派手に」紹介してくれた。僕は、はっ、と思い、背筋を伸ばし、引きつった笑顔で軽く会釈をした。すると、会場のスタッフがワイヤレスマイクを持って僕の方へ走ってきた。どうやら、この状況で挨拶をしなくてはいけないらしい。困笑しながら、僕は簡単に自己紹介をした。もちろん、会場でアジア人らしき人は僕一人だったし、ニコロが壇上から紹介したせいで、僕は特別なゲストのようになってしまって、パーティがスタートしたとたん、多くの紳士淑女が挨拶を求めてきたので、多いに困惑した。これが僕が、日本での成功者だったら別だが、まだ借金まみれの小さな吹けば飛びそうな学生ベンチャーの経営者だ。

 そんなこんなしている内に、壇上では代わる代わるベンチャー経営者と思わしき人物が登場し、現在の会社の状況を説明していた。何か状況がおかしいと思ったら、これは投資家とアントレプレナーのマッチングのパーティではなく、既に投資した投資家から見たポートフォリオカンパニーの定例発表会だった。つまり、壇上のアントレプレナーは、直近の会社の状況と将来について話し、投資した側は、それを聞いて、質問をする、というものであった。壇上で繰り広げられる「報告会」は非常にエキサイティングであった。職種もITから物流、そしてレストランやホテルまでさまざまで、資本金だけで数十億(円)を超える大きなスタートアップも見受けられた。僕がサーブされる食べ物もそこそこに報告に見入っていると、いつの間にかニコロが隣に立っていた。そして、ちょっと誇らしげに、僕にこういった。

「これは、俺が主催しているパーティなんだ。どうだ、日本のパーティはクズだろ?」

 と。そして、ウインクした。僕は素直に、そう思ったし、

「そうだね。」

 と言った。こうなると色々とニコロに聞きたいことはあったのだが、僕は最初に

「すでにIPOをした企業はあるのか?」

 と聞いた。
 するとニコロは厳しい顔になり、なぜ、そんな質問をするのか、と続けた。僕は慌てて、何か気に障るようなことを言ったとしたらごめん、と言って、ただ気になっただけ、とそう答えた。ニコロはこう続けた、

「IPOした会社は2社ほどある。しかし大事なのは、ここに参加している投資家はIPOと同時に株を1つたりとも売っていないところだ」

 と言った。なるほど、ニコロの心中がだんだんわかってきた。次の僕の質問は的を射ていた。

「ここの投資家は償還期間(redemption period)をどれくらいに設定してるのか?」

 すると、ニコロは笑って言った。

「おまえ、わざとその質問をしたな。僕らが暗に共有してきたのは、そこなんだよ」

 と。そして、約半数の投資家は償還期間を設定していない、といい、残りの半数の投資家は償還期間が20~30年程度だと、言った。
 僕は、正直、面食らった。それじゃ、どうやって、キャピタル・ゲインを得るのだと、目を丸くして聞いた。するとニコロは、また大笑いして、

「アメリカ人じゃないのに、そんなことを言ってちゃだめだ。日本に真のアントレプレナーが育たないとしたら、それはアメリカ型の真似をしているからだ」

 と言い放った。

 つまり、こういうことだった。
 ここに参加している投資家達の多くは貴族出身の人やファミリー企業を何世代もかけて成長させてきた人たちだった。彼らは、投資に対して直近の「リターン」を考えていないのである。では、何か。ニコロの言葉を借りれば、「投資は結婚に近い儀式」だと。つまり、アメリカのベンチャーキャピタリストの言う、「EXIT」が存在しない。親は子供の結婚に対して一般論として結果を求めない。結婚により孫が生まれれば、子供と同じように孫にも「無償の愛」を注ぐ。そして、それは決して「見返り」を求めない。これは万国共通である。ここでの投資行為は、その事実に似ているという。

 先ほど来、壇上で話しているアントレプレナーのような人たちは、それを聞いている投資家が投資をした一代目であることもあれば、二代目であることもあると。また、投資をした方も、投資をされた方も三代目という事例もちらほらあるという。これには、驚いて開いた口が塞がらなかった。しかし、ビジネスに本当に、見返りを求めない愛など存在するのだろうか。僕は、そこをニコロに確認した。すると彼はこういった。

「正確には、見返りを求めていないわけではない。ここに居る投資家はEXITを由としない連中が多い。彼らは、未上場の企業に自分達の英知をすべて注ぎ、そして、長い年月をかけて、going concern の状態にし、配当を受け取っている。償還期間が事実上無いわけだから、そのビジネスが続く以上、配当を受け取り続けるわけで、それにより、リクープを迎え、そしていつしか、税引き後でも安定的で充分な利益が手にできている」と。

 僕は、日本の投資環境を振り返った。多くの大手VCの償還期間は5年前後。5年が近付くと、「担当者」は、そわそわし出し、IPOが出来ないのなら、どこかへできるだけ損切りをしない程度にEXITしたがる。その時のなりふり構わない様といったら、「品」のかけらもない。一方、ニコロ達のやっていることからは「尊さ」を感じた。そして、それは、見返りを期待しない「無償の愛」と言っても過言ではないとさえ思えた。

 ニコロは、イタリアとチェコで繊維工業を営むファミリーの次男として生まれた。兄が3代目として社長を継承し、ニコロも大学を卒業後、家業に入った。その中で、ここ10年は、投資部門の役員として、この会を主催しており、彼のポートフォリオカンパニーも数社あるという。

 さて、僕には、どうしてもニコロに聞きたいことがあった。それは、どうして、僕をここに呼んだのか?ということ。ニコロはまた、大笑いしながら答えた。

「お前は渋谷で、『スタートアップで借金まみれだ』と俺に言ったな?だから呼んだ。そういう奴は、ここに来る資格がある」と。

 僕は最初釈然としなかったが、彼の説明を聞くと納得がいった。
 当時の日本のスタートアップは、とにかく米国型を何の批判も無しに真似していた。アントレプレナーは、ビジネスプランを書き、アメリカのビジネススクールを出たというすばらしい肩書きをそこに添え書きしておけば、最初から高いバリュエーションで「イージーマネー」を手にすることができた。ニコロはそれに全力で反対していた。スタートアップは「地べたをはいつくばるようなもの」とは彼の言葉。これを経験しないと、彼は認めないと。僕は、地べたをはいつくばっている、つもりはなかったが、イージーマネーには嫌悪感を抱いていたし、だからその分、借金まみれになっていた。そこが、ニコロの食指に触れたらしい。実際、ニコロの会に出席しているスタートアップは、自己資金、ファミリーからの借金、銀行からの借金で事業をスタートするのが一般的だという。そして、時間をかけてビジネスを成長させ、そういった借金にしっかりと利子をつけて「返済」し、さらに事業を拡大し、長い「歴史」を作る中で資金が必要になったとき、彼らは信頼する銀行と同様に、ここに参加している投資家達を信頼するのだと。

 すべてのヨーロッパのスタートアップがこうであるわけではない。むしろ、ニコロのやっていることは非常に「異端」かもしれないと、本人は認めている。しかし、その理念と哲学には、われわれが学ぶべき重要な要素が含まれていると、当時強く感じたことを今でも覚えている。

 リーマンショック後、日本のビジネススクールでは何を教えているか。それは、相変わらずアメリカ型のモデルを土台にしたものであり、そこで学ぶ学生たちも、それに「不用意」な憧れを抱いている。その中で、教鞭を取る僕は、少なくとも、ニコロの哲学を、そして彼が実行していた暗黙知を形式知に置き換えて、「異端」であっても、煙たがられても、伝えなくてはならないと思うのである。

 翌朝の城の朝はすがすがしかった。初夏の新緑の香りが僕の部屋にも入ってくる。大きく深呼吸をし、そして、ニコロに心から感謝した。荷物をまとめて、車寄せまで行くと、薄汚れたロッソのアルファロメオが止まっていた。僕の荷物をトランクに積みながら、今度はゆっくり来い、とニコロは僕に言った。

 僕は、ベルボーイや城のスタッフに例を言って、この大きな古城を見上げた。さながら額縁から飛び出してきたような古城からは、その歴史の重さを感じた。

 帰り際、山岳地帯を右へ左へステアリングをきっているニコロに、ふと思ったことを聞いてみた。

「そういえば、あの城は誰の持ち物なの?」

ニコロはまた、大笑いしながら言った。


「俺のだよ」



(おわり)



代表主任研究員(T) 専門:情報社会論、メディア技術論

2011年2月28日月曜日

エピソード:ニコロとの思い出(2)

前回からの続き***


 僕は早速、ローマ行きのJALを予約した。少々の好奇心と、多大な懐疑心が入り混じりながら、本当にこれで良いのか何度も自問自答したが、どうしても僕にはニコロが悪い奴には思えなかった。ほどなくして、ニコロ本人から僕にメールがあった。渋谷の交流会でちょっとした会話をして以来、はじめてのメールであった。

「参加ありがとう。心から嬉しい。エアーも宿も何も心配することは無い。ローマで会おう。 ニコロ」

 僕は慌てて、自分の予約を取り消し、翌月、ニコロのアテンドによって成田からローマへ飛び立った。イタリアへはそれまでに何度か行ったことがあったが、そのほとんどは、僕の好きな東欧から電車での入国だったから、直行便に乗ったのは、これがはじめてだった。驚いたことに、ニコロの予約したシートは、ビジネスクラスだった。僕は何かの間違えかと疑ったが、確かにビジネスクラスだった。一体、ニコロとは、何者なのだろう。そして、最も重要な問題として、一体彼は僕に何を期待しているのだろうか。その答えは、そう長く待たずに明らかになるのであった。


 ローマ空港に降り立つと、改装中の国際線ターミナルは閑散としていた。預けた荷物を受け取って、ゲートの外に出ると、ニコロが満面の笑みで出迎えてくれた。相変わらずのイタリア人っぽい髭面に、ぴしっとプレスされたダークスーツが良く似合っている。力強い握手の後、彼は僕のトランクを転がして駐車場に案内してくれた。その間、ビジネスクラスや宿のアテンドの礼を言った。ニコロは、ウインクをして、気にすることは無い。日本からの大事なお客だと伝えただけだと、言った。

「さて、これから会場まで、3時間ほどかかる。遠慮しないで、ゆっくり寝てくれ」

 ロッソのアルファロメオのトランクに僕の荷物を入れながらそういった。僕が助手席に乗り込むや否や、荒々しくミッションを駆使して、車を走らせた。空港を出てハイウエーに乗ると、辺りはヨーロッパならではの平原だった。僕にとっては見慣れた光景だったが、いつものバックパックの旅行と違って、今回は少し緊張していた。なにせ、この後に何が待っているのかまったくわからないのだ。初夏の少々強い日差しがフロントウィンドーから差込み、その暖かさもあってか、いつの間にか僕は寝入っていた。次に目を覚ますと、ニコロはちょっとした山岳地帯を右へ左へとステアリングをきっていた。

「少しは寝られたか?もう少しだ。」

と、ニコロは言った。

 ほどなくすると、新緑の木々に囲まれた車一台がやっと通れる道に入り、遠くに鉄格子でできたゲートらしきものが見えた。ニコロはサンバイザーに挟んであったリモコンを使って、このゲートをくぐり、そしてさらに、車を走らせた。次第に、手入れの行き届いた木々が見えてきて、大きな芝生の広間に出た。

「さっ、着いたぞ。」

 僕は、目を疑った。
 芝生の広場の先には、大きな古城が断崖絶壁にせりたっていたのだ。

「ここは?」

 やっとの思いで、そう聞くと、

「パーティ会場だよ。ただし、渋谷のパーティとは訳が違うけどね」

 そういって、ニコロはまたウインクしてみせた。
 車寄せに近付くと、ベルボーイが2名近寄ってきた。ニコロとはまったく違った綺麗な英語で、

「ようこそ、お待ちしておりました」

 と言って、僕を車から降ろし、続けて静かに荷物も下ろした。ニコロは用事があるから、後は彼らについていけ、とぶっきら棒に僕に言って、そそくさとどこかへ行ってしまった。僕はそのベルボーイについて、城の中に入った。

 中に入ると高い天井には、光取りの窓と、すばらしい天井絵があった。外の日差しは若干強かったが、中はひんやりとしていた。僕はベルボーイが案内するがままに部屋へ通された。

「ここが、あなたの部屋です。何かわからないことがあれば、いつでもお呼びください」

 そういって、彼らはすぐに消えた。

 ベッドの上に、書置きがあり

「パーティは、19時から、それまでゆっくりお休みください」

 とあった。時計を見るとまだ、16時だった。僕は窓を開けて、ちょっとしたホテルのスイートルームほどある部屋のベッドに横になると、いつの間にか眠っていた。

 次に目が覚めたのは、部屋の電話が鳴った時だ。電話の相手は、相変わらず、イタリア訛りが酷い英語のニコロの大声だった。

「良く、寝られたか?スーツに着替えて、ホールに下りて来い」

 と言って、ガシャンと電話を切った。僕は、メールで指示されていた通り正装の支度をしてあったので、軽くシャワーを浴びて、それらを身につけた。窓から外を見ると、車寄せには、ぞくぞくと正装の人々が、車で押し寄せていた。

 着替えを終えた僕は、早速、部屋を出て、ホールらしきところを目指して階段を下りた。下の方では、ざわざわと沢山の人が集まっている雰囲気がする。さて、何のパーティだろうか。胸が高鳴るのを感じた。

 ホールには、ざっと、200人ほどの人が集まっていた。そして、平行に置かれた長テーブルには、オードブルがすでに用意されており、人々はウェルカムドリンクを飲んでいた。もちろん、僕は知っている人などいるはずもなく、端っこの方で、一人コーラーを注文して、その不思議な光景を見ていた。

 すると、イタリア語のアナウンスの後、壇上にニコロが登場した。会場の人たちは、大きな拍手を贈った。どうやら、彼がこの会の主催者らしい。すべてがイタリア語なので、僕には何のことかわからないのだが、次の瞬間、壇上のスクリーンに映し出されたスライドを見て、ようやくこの会の主旨が理解できた。最初のスライドにはこう書かれていた。

「第20回、デルモンテ城、インキュベーター・ミーティング」


(つづく)



代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2011年2月27日日曜日

エピソード:ニコロとの思い出

 今年は一足早く、春の訪れを感じます。この時期になると、いつも思い出す出来事があり、他愛もない経験ではあるのですが、なかなか意義深い時間だったので、このブログに数度に渡って書き残そうと思います。なんだ、「情報通信メディア研究所」って大題目と、ぜんぜん関係ないじゃないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は、間接的に関係があって、しかもこの分野の「環境」において、非常に重要な指摘もあったりします。というか、できる限り、それがわかるように書いてみようと思います。それでは。

 ちなみに、この「エピソード」については、6-7年前にとある雑誌に書いたことがあります。念のため、同誌の私の担当に確認したところ、こういう形で再度書くことは何の問題も無い、とのことでした。もし、昔読んだ方がいらっしゃったら、思い出しながら再度お読みください。

***


 1990年代半ば、僕がまだ大学生だったころ、渋谷で開かれた異業種交流会に出席した。僕は起業して2年目くらいのときで、まだまだ事業は順調とは到底いえない状況だったが、なんとかかんとか、インターネットの会社の切り盛りをしていた。この異業種交流会には、インターネットバブルに乗ってひと財産を築いた人から、これから「アメリカン・ドリーム」を夢見て情報交換に来る人、政治家や、ベンチャーキャピタルの連中など、多くの人たちでごった返していた。今の日本から見れば、「ああいう時代もあったか」と思わせるほどの熱狂ぶりだった。

 僕はこういう場があまり好きではなかったし、特にこれといって資金を調達するつもりもなかったので、一通り、知り合いに挨拶を済ませたら、入り口近くのテーブルに腰を下ろし、この熱狂振りを肴に飲み物を飲んでいた。挨拶をしなくてはならない人には顔を見せたし、そろそろおいとましようと思っていた頃、一人の外国人が、「ふーっ」とため息をつきながら、コーラを手に持って僕の隣に座った。そして、ひどいイタリア訛りの英語で

「残念だね」

 と僕に言った。

 僕は、彼がどういう意味でそう言ったか深読みはしなかったが、少しうなずいて、また、会場の熱狂振りを観察しはじめた。彼が「お前は酒を飲まないのか?」と言った。僕も彼と一緒のコーラを手にしていた。僕は生まれながらに酒は飲めない。下戸である。そう伝えたら、彼も同じだといって、肩をすくめた。イタリア人で酒をのめないと肩身が狭い、と彼が言うから、日本でも一緒だね、と僕は答えた。彼の名前は、ニコロと言った。僕よりも少なくても一回りは年上のイタリア人らしい体格の良い男だった。僕は軽く挨拶を済ませると、そこを後にしようと立ち上がった。しかし、彼が、せっかくだからもう少し話そうというので、僕がまだ大学生だとか、自分がやっているビジネスのこととか、大学での研究のこととか、一通り自己紹介をした。彼はその間、何も言わずにずっと座っていた。

 一通り僕が話し終わると、「お前は、ここで自分のビジネスをアピールしないのか」というから、僕は、下を向いて「僕は、こういうところが好きじゃない」と本心を言った。ニコロは、僕の肩をポンと叩いて、僕の名刺を見ながら、また今度連絡する、と言って、最後にイタリア語で何かを言って、笑顔で手を振ってその場を立ち去った。

 あれから何ヶ月経っただろうか、冬の寒さが和らぎ、春の香りを感じられる季節になったころ、一通の手紙が海外から届いた。ぱっと見、差出人に心当たりがなく、ちょっと疑い深く中を開くと、何かのパーティの招待状だった。

 招待状の間に、破ったノートで、

「是非、君を招待したく、待っている。 ニコロ」

 という言葉が添えられていた。

 少し考えて、「あっ!」と、やっと思い出した。

 あの交流会で会ったイタリア人か!
 僕は、オフィスの自分の椅子に深く腰を掛け、少し考えてから、招待状に書いてあった連絡先に、これ以上ないくらい丁寧な英語で「参加」の意思を書き、ニコロによろしく伝えるように付け加えた。


(後半へ続く)


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論

2011年1月31日月曜日

インターネット、「自由という名の政策」

 エジプトの政変で、インターネットがブラックアウトされた。ネットワーク・セキュリティ会社、Arbor Networks社のエンジニアが、エジプトのインターネットブラックアウトを表現した興味深いヴィジュアルがこれ(http://mashable.com/2011/01/28/egypt-internet-graphic/)である。1月27日の午後6時少し前を境に、トラフィックが激減している。

 一方、ほぼ時を同じくして(日本時間の26日)、米国のオバマ大統領は、上下両院合同会議において一般教書演説を行っていた。この中で、オバマ大統領は、インターネットの技術に言及し、「グーグル」や「フェイスブック」という民間企業を名指しで賞賛し、景気の回復に寄与すると同時に「アメリカの生んだもの」と言った。

 エジプトはその、アメリカの生んだ「インターネット」を、政変において、まさに、ブラックアウトしたのであって、このケースでは、いくつかの争点が浮き彫りにされたと言っていい。

 まず、この日私は、Twitterで繰り返しエジプトのインターネットの記事を引用しながら、「インターネットが民主的な『手続き』であることが証明された」というツイートを反射的に行った。つまり、独裁政権や一党独裁下の国家において、インターネットはたびたび制限されてきた。昨年も数度、仕事で上海に行ったが、ホテルのネットに接続すると、Twitterはブロックされており使えない。仕方なく、日本で利用しているスマートフォンのローミング回線からTwitterにかろうじて接続したことを思い出す。このように、民主主義を取らない「領域」において、その時の権力にとって、インターネットというテクノロジーは民主化を助長する、強い脅威となるのである。特に、Twitterやフェイスブックといったソーシャルサービスは、言論の自由を「謳歌」する傾向が強いのである。

 従って、この度、エジプトでのインターネットの遮断において証明されたのは、インターネットがいかに民主的な手続きであるか、ということなのである。もう少し議論を深めてみよう。正確に言えば、インターネットそのものではなく、インターネット上のサービスにおいて、民主化を結果として促進するようなサービスが世界的に人気を集めているというのが、正しい言い回しと思われる方もいるかもしれない。無論、それも狭義の意味ではその通りであるが、インターネットが確立される歴史、つまりは、パケット通信から、TCP/IPが標準のプロトコルとなる歴史は、極めて「民主的な手続き」でそれが行われてきた。遡れば、1957年のスプートニックショック以来、米国は「オープン」というキーワードのもと、米国だけではなく、世界中の研究機関と連携してインターネット的なるものを研究開発してきた。テクノロジーそのものは、極めて無機質である。つまり、「internet」は、「net」と「net」を「inter(繋ぐ)」技術そのものであるが、それが「the Internet」となった瞬間、民主的な手続きが前面に押し出され、いわば、政治性を帯びるのである。

 つまり、先ほどの、オバマ大統領の一般教書演説なのである。久しく、アメリカのトップがインターネットに触れた演説を聞いてこなかった。クリントン、ゴア政権のときは、特に時のゴア副大統領が、熱心にインターネットについて語っていたのであった。しかし、ここにきて、Twitterやフェイスブック、そしてグーグルといったサービスが、世界を石鹸したことを受け、経済復興のシンボルとしても、十数年ぶりに米国のトップが明確にインターネットのことを口にしたのである。しかし、皮肉にも、まったくその日に、エジプトのブラックアウトが起こる。それによって、さらに、インターネットが民主的手続きであることが、強調されることとなったのである。

 一方で、民主的手続きであるからといって手放しで喜べない側面もある。果たして、インターネットは、世界のデモクラッツを代表していると言って良いのであろうか?先述の民間企業、Twitter、フェイスブック、グーグルは、すべて、米国の企業であることは周知の通りであろう。インターネットが出現して以来、ハードにしてもソフトにしても世界を石鹸するようなサービスは、そのほとんどすべてが米国発であると言って過言ではない。つまり、「自由という名の『政策』」がそこには見え隠れする。これは、長いこと、私が言い続けてきたことでもあるが、インターネットそのものが、自由という名を冠した「政策」であることは、ほとんど事実である。インターネットという性善説的なインフラにおいて、その自由を謳歌しているのは、米国的なビジネスであり、思想なのである。したがって、それが、アメリカと敵対する国家の元では制限されることとなり、インターネットという、本来はピュアな「テクノロジー」であるはずのものが、政治性を帯びる結果となるのである。無論、繰り返しになるが、今回のエジプトの件で、インターネットが民主的手続きであることが、さらに証明されたことに違和感は覚えないし、そのこと自体はむしろ喜ばしいことであると考える。このように、民主化の手続きをインターネットが助けるのであれば、それは止めるべきことではない。しかし、それが「アメリカなる物」としてのインターネットであったとするならば、我々はいささか、気を付けなければならないのではないだろうか。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論