2011年1月31日月曜日

インターネット、「自由という名の政策」

 エジプトの政変で、インターネットがブラックアウトされた。ネットワーク・セキュリティ会社、Arbor Networks社のエンジニアが、エジプトのインターネットブラックアウトを表現した興味深いヴィジュアルがこれ(http://mashable.com/2011/01/28/egypt-internet-graphic/)である。1月27日の午後6時少し前を境に、トラフィックが激減している。

 一方、ほぼ時を同じくして(日本時間の26日)、米国のオバマ大統領は、上下両院合同会議において一般教書演説を行っていた。この中で、オバマ大統領は、インターネットの技術に言及し、「グーグル」や「フェイスブック」という民間企業を名指しで賞賛し、景気の回復に寄与すると同時に「アメリカの生んだもの」と言った。

 エジプトはその、アメリカの生んだ「インターネット」を、政変において、まさに、ブラックアウトしたのであって、このケースでは、いくつかの争点が浮き彫りにされたと言っていい。

 まず、この日私は、Twitterで繰り返しエジプトのインターネットの記事を引用しながら、「インターネットが民主的な『手続き』であることが証明された」というツイートを反射的に行った。つまり、独裁政権や一党独裁下の国家において、インターネットはたびたび制限されてきた。昨年も数度、仕事で上海に行ったが、ホテルのネットに接続すると、Twitterはブロックされており使えない。仕方なく、日本で利用しているスマートフォンのローミング回線からTwitterにかろうじて接続したことを思い出す。このように、民主主義を取らない「領域」において、その時の権力にとって、インターネットというテクノロジーは民主化を助長する、強い脅威となるのである。特に、Twitterやフェイスブックといったソーシャルサービスは、言論の自由を「謳歌」する傾向が強いのである。

 従って、この度、エジプトでのインターネットの遮断において証明されたのは、インターネットがいかに民主的な手続きであるか、ということなのである。もう少し議論を深めてみよう。正確に言えば、インターネットそのものではなく、インターネット上のサービスにおいて、民主化を結果として促進するようなサービスが世界的に人気を集めているというのが、正しい言い回しと思われる方もいるかもしれない。無論、それも狭義の意味ではその通りであるが、インターネットが確立される歴史、つまりは、パケット通信から、TCP/IPが標準のプロトコルとなる歴史は、極めて「民主的な手続き」でそれが行われてきた。遡れば、1957年のスプートニックショック以来、米国は「オープン」というキーワードのもと、米国だけではなく、世界中の研究機関と連携してインターネット的なるものを研究開発してきた。テクノロジーそのものは、極めて無機質である。つまり、「internet」は、「net」と「net」を「inter(繋ぐ)」技術そのものであるが、それが「the Internet」となった瞬間、民主的な手続きが前面に押し出され、いわば、政治性を帯びるのである。

 つまり、先ほどの、オバマ大統領の一般教書演説なのである。久しく、アメリカのトップがインターネットに触れた演説を聞いてこなかった。クリントン、ゴア政権のときは、特に時のゴア副大統領が、熱心にインターネットについて語っていたのであった。しかし、ここにきて、Twitterやフェイスブック、そしてグーグルといったサービスが、世界を石鹸したことを受け、経済復興のシンボルとしても、十数年ぶりに米国のトップが明確にインターネットのことを口にしたのである。しかし、皮肉にも、まったくその日に、エジプトのブラックアウトが起こる。それによって、さらに、インターネットが民主的手続きであることが、強調されることとなったのである。

 一方で、民主的手続きであるからといって手放しで喜べない側面もある。果たして、インターネットは、世界のデモクラッツを代表していると言って良いのであろうか?先述の民間企業、Twitter、フェイスブック、グーグルは、すべて、米国の企業であることは周知の通りであろう。インターネットが出現して以来、ハードにしてもソフトにしても世界を石鹸するようなサービスは、そのほとんどすべてが米国発であると言って過言ではない。つまり、「自由という名の『政策』」がそこには見え隠れする。これは、長いこと、私が言い続けてきたことでもあるが、インターネットそのものが、自由という名を冠した「政策」であることは、ほとんど事実である。インターネットという性善説的なインフラにおいて、その自由を謳歌しているのは、米国的なビジネスであり、思想なのである。したがって、それが、アメリカと敵対する国家の元では制限されることとなり、インターネットという、本来はピュアな「テクノロジー」であるはずのものが、政治性を帯びる結果となるのである。無論、繰り返しになるが、今回のエジプトの件で、インターネットが民主的手続きであることが、さらに証明されたことに違和感は覚えないし、そのこと自体はむしろ喜ばしいことであると考える。このように、民主化の手続きをインターネットが助けるのであれば、それは止めるべきことではない。しかし、それが「アメリカなる物」としてのインターネットであったとするならば、我々はいささか、気を付けなければならないのではないだろうか。


代表主任研究員(T) 専門:情報産業論、メディア技術論